Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

言葉遊び

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非二元とかの話を聞いていると、
なんか言葉遊びしてるだけとちゃうんか?
みたいに思ったりすることがあるかもしれません。

なんか、
私はいないから、この行為も起こってるように見えるだけー。
そんなもの存在しないしー。
みないなことでね、片付けられたとしても、

いやいや、
さっきあんた、自分のこと話してたやん!
はじめましてーゆーて、自己紹介してたやん!

ってね。
つっこみたくなるかもしれません。

何かを判断し、取捨選択をした上で、理解する。
というこの一連のシステムを採用している限り、
非二元のあらゆる言葉は言葉遊びにしか聞こえず、
何となく理解したとしても、すぐに矛盾に直面し、
あれ、
この場合はどういう風に捉えればいいんだ?
と言った疑問にぶつかったりするんですよね。

よし!今度はこの質問を先生に聞いてみよう!
とか思って、セッションの予約をして、
ってね。
やってても、キリがありません。

または、
なーんだ。ただの言葉遊びやってるだけなんだ。
だって、誰もまともに説明できないじゃん。
みたいに捉えちゃっったりね。

はたまた、
世界は幻想だ~!
とか言われて、

何だと!この自分の人生を幻想だと片付けるのか!
し、、、失敬な!ゆるさんっ!
って感じたり、

全ては完璧だから、幻想だとしても、
それはそれで、完璧なんですー。
そのまんまで良いんです~。

とか言われて、

それじゃ、良くないから、話を聞きに来てるんでしょっ!

ってね。
思って見たり、

何とも捉えがたく、
ああいえばこう言う。
みたいにね。

なんだかんだと聞いてみても、最後には
言葉では説明できることじゃないんです。

みたいに言われて取り付く島もなかったりね。

そんな言葉遊びにイラッと来る方もおられるかもしれませんね。

それもこれも、結局のところ、

何かを判断し、取捨選択をした上で、理解する。
っていうね。
この一連のシステムを採用している限りは矛盾点は消えないんですよね。

で、非二元とかで言われている事っていうのは、
このシステムが世界を構築していますが、そのシステム自体が万能じゃない。
といいますか、
そのシステムはただのシステムにしかすぎず、そのシステム上でとらえた世界は、
システム上で現れているように見えているだけであって、
本来は、そんなシステムでとらえようがどうしようが、世界は世界としてただ在るだけ。

みたいなね。

例えてみますと、
目の前の景色を、どうしてもサングラスをかけてからしか見ない。
そうすると、そのサングラスを通した世界しか見えないですよね。

でも、サングラス外したら、そのまんまで見えますよねぇ?

って言ってるだけの話しだったりするんですよね。
ま、ものすごく強引な例えですけど、

でもどうしても、サングラスをかけないと始まらない。
みたいな、もうそれが信念としてこびりついていると言いますか、
サングラス無しでいることが選択肢にない。みたいなね。
そういうのがもう当たり前の土台になっちゃってるんですよね。

矛盾を感じるのは、判断し取捨選択することによって理解する。
という一連のシステムを土台にしているからです。

矛盾するやんけー!
おかしいやんけー!

ってなるんですよね。

このシステムは分離が土台となってまして、言葉も分離を土台として作られたツールなので、
そのシステム上、
言葉というツールでは、分離がないというのは説明ができないっていう事なんです。

でもって、この分離のシステムのウソさが見抜けると、
何にも無さ、元々の当り前が明らかになるんですね。

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