Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

悟った人なんておらんのですよね。

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よくね、
色んな人が悟りの体験を披露してるじゃないですか。

一休さんは、カラスがかぁああああ!って鳴いたのをきいた時に悟りに至った。
とかね。

エックハルトトールさんでしたっけ。
なんか川で泳いでた時に悟りを体験した。

中村天風さんは、
森の中で岩を背に寝転んでた時に森と一体になった
みたいなことを聞いたような気がします。

パーンて、何かの閃きがやってくるかのように、
その悟りの一撃がドーンって起こってくる。

みたいなね。

そんな印象があると思います。

僕もそんな体験をしたことがあります。

最初は、横断歩道で信号待ちしてた時でした。

はぁ〜、仕事だるいなぁ、、、って考えながら、
そばでも食いに行くかーってことで、横断歩道で信号待ちしてた時にね。

あれ?全部頭の中のおしゃべりや!
このおしゃべりがなかったら、なんもない。

ふあぁっ!

ない!ない!なんもない!
全部ひとつや!

みたいな感覚です。

でも、ものすごく怖くなって、すぐに戻ってきました。

そのあとしばらく後に、結構大きめな体験もありました。

えええ!全部許されてるんやん!
生命や!
生命しかない!全部が生命やん!!!!
この生命感しかない!
ここにどんな差もなく分離もないっ!

あれれ?犬のフンも生命なら、ペットボトルのフタも生命そのものやんっ!

って感じの体験でした。

その時はもうずっとこの感覚で行けるんだ!
おいらはとうとう悟ったんだ!
って思ってましたね。

一週間くらい続いたでしょうかね。

でも、また今までの自分に戻ってきました。

あれれー?
おれ、悟ったはずなんだけどなぁ。
なんだか苦しいなぁ〜。

今まで気にもとめなかったことでさえ、なんだか窮屈に感じるなぁ〜。

って感じで余計にしんどくなる感じでした。

その後も、何度もそういった体験は起こったわけなんです。

でね。
こういった体験を繰り返すたびに、なんだか徐々にワタシというエネルギーが、
少しずつ弱まっていったような気がします。

でね、
僕としては、
そうか、こうやってそのまんまにリラックスしていれば、
このワタシというエネルギーが弱まって行って、最後には「それ」のみが残るんやな!

って思ってたんです。

でも、何度そんな体験があったとしても、やっぱり
思考のお話は起こってきますし、記憶だってちゃんとありますし、
嫌なことも起こってくるんですよね。

で、そのたびに、まだ「ワタシ」のエネルギーが残っておるんやなぁ・・・
なんて思ったりもしてたんです。

大方の先生たちの説明だって、
なんかワンネス体験?みたいなもんを体験させようとするモノだったり、
体験の後も特になにかすることは変わらず、思考を観察する観察意識にいる。
みたいなね。

そんな説明が多いじゃないですか。

だから、僕もそう思ってたんですよ。

そういった体験があった人とも沢山あって話したりもしましたが、
体験は何度もあって、
「それ」のことを説明することも出来るけど、
やっぱり、何もない「それ」にリラックスしたかと思えば、ワタシのエネルギーに戻ったり、
なんかそんなことを繰り返してる人も多いかんじだなぁ。
といった印象でした。

ま、そんなもんかなぁ。
って思ってたんですけどね。

そうやって、徐々に私のエネルギーの中で生きるのが少なくなっていって、
「それ」そのものを生きるようになる。

みたいなね。

そういうプロセスがあるんだと思ってたんです。

でもね、
「それ」っていうのは、
ただ、単純に見抜かれる。
明らかになるだけだったんです。

どういう事かと言いますとね。

ホントのホントに、自分が何かになるっていう事じゃなかったんです。

言葉で、何回聞いても、やっぱり自分がそういう状態になるんじゃなかろうか?
って思ってたんですけどね。

ホントのホントに、何かが変わるわけじゃなく、
ただ、単純に、最初からそうだったことが明らかになるだけやったんですよ。

悟りの体験だとか、徐々に「ワタシがいない」に慣れ親しんでいく。
っていうよりはね。

最初っからワタシなんていない。
いたこともない。

っていうことが、明らかになるだけだったんです!

誰にも、私はいないですし、
単純にワタシはいるんだーって誰かが思っていたとしてもなんら問題なかったと言いますか。

なので、これらのプロセスもぜーんぶ物語でしかなかったんですよね。

ほええええ。
って感じです。

で、それが物語やから、幻想だー!
ってことなんですけど、
幻想で全然オッケーなんですよね。

幻想が起ころうが何が起ころうが、
もう、何でも起こりうるんです。

でも、ワタシはそのどこにもいないし、いる余地もないんです。

これが自由だという事だったんですよね。

一瞥体験でみた、イノチしかない!っていう感じも、
それを見てる誰かもいてなかったんです。

ただ、ダイレクトに「それ」しかない。

観照意識も起こってる物語の中にあるように見えているだけで、
やなことも良いことも、
ダイレクトに起こってるように見えていて、
それでいて、なーんにも起こってなくてね。

そのダイレクトなそのものしかなくて、誰が悟っただとか、誰がもう少しで悟れるとか
誰かが、「それ」をしっていて、他の誰かは「しらない」とか、

もうね、それも物語上であるように見えてるだけで、
誰がってのが無いんです。

「それ」を知っているようなことが見かけ上起こってるように見えてたり、
まだ「それ」を知らないといったようなことが見かけ上で起こってるように見えてたり、

そういったことが起こってるように見えるためには、自分がいるという概念を立ち上げなきゃならなかったり、

って、これらもゼーンブ物語上で具体性が付与されているだけで、
ホンマはなーんもないんですよね。

これが、夢からの目覚めであって、夢から目覚めたところで、夢と何ら変わりはなく、
ただ、起こっていることを夢として見ているか、そのまんまダイレクトにみるか?

それだけの違いだったんです。

どっちであろうが、最初っからワタシなんていてなかったんです。

ま、夢であろうが「そのまんまをダイレクトに見る」のであろうが、
見てる誰かもいませんので、この辺りは言葉の限界なんですけどね。

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