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Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

いつしか、身体が自分だと認識している。

自我ちゃんのクセ

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なんとなーく、僕らって、
身体があると思ってたりしていて、その身体を自分だと思ってたりするんですよね。

かといって、
その身体全体を常に意識しているわけでもなく、
腰が痛い時は、腰だけを意識しておりますし、
お腹が減ったら、お腹だけだし、
頭が痛かったら、頭だけを認識していて、
実際に、身体を身体として感じたりする事って無いんです。

また、
身体が自分だと思っている割には、
身体を完全にはコントロールすることはできません。

でもって、
身体自体が自分の場合もあれば、
自分の身体。
自分が所有する身体。
みたいな表現をしたりもして、
身体を一つの所有物に感じる場合もあったりします。

僕の右手、僕の左手。
とか
あかん!足が痺れた。。。
みたいな感じでね。

じゃあ、身体が自分の持つ所有物にだとしたら、
その自分はどこにおるんや?
というと、
どうも身体の中心にあるような気がしていたりもします。

にもかかわらず、身体は常に変化をしていて、
子供の頃の身体と今の身体は全くの別物になっているにもかかわらず、
それは、成長して、老化したんや。
みたいな理屈で、片付けていたりするわけですけど、
もし、身体の中心に自分がいるのであれば、
それはどこかに変わらずにいてなきゃおかしいんですけど、
そんなものは存在してなくて、


身体は、常に変化をしているわけです。

身体は常に変化を繰り返しているのにもかかわらず、
どこかで変わらない自分ってのがやっぱりあったりする気になってたりするわけです。

そんなん、おかしいですよねぇ?

よくよく考えてみたら、身体自体が自分というのも変で、
それでもって、かだらの中心に自分がいるというのも変なんです。

どこにも、自分なんておらんのです。

ただ、変化する身体があるだけなんです。

でも、
身体が自分じゃ無いとはいっても、
やはり目の前の現象は感じたりしているわけです。

それでもって、自分が身体じゃなかったら、その現象の方に自分とがおるんか?
といいますと、
当然のことながら、
その現象の中にも自分なんていないわけです。

となると、自分だと思っている漠然とした感覚はあるけど、
自分という何かはいないということになります。

どこを探しても見つかりません。

ただ、現象が現象として起こっているだけです。


景色が移り変わったり、
感触として、
手の感覚や、音の感覚。
暑さや寒さのように感じる感覚として起こっています。

現象としてただ起こってるんですね。

身体の中にも、現象の中にも自分という何かはどこにもいてなくて、
その自分という感覚も現象として起こっています。

となると、
起こっているのは、その現象だけだということになるんですよね。


認識された個別の現象からレッテルづけされた概念を差し引くと
認識以前のただ「在る」だけが残ります。
存在感みたいなもんですね。


レッテルは、現象の中で意味付けをした時だけ、その意味づけされたレッテルとして、
何かが、見かけ上に現れてきているんです。

レッテルという概念の無い、本来の現象には
どんな意味も無いんです。

認識された個別の現象にはということではなく、
認識以前の在るという感覚。

普段、何気なしに自分だと思っていた感覚から、
自分という概念を引いた、ただ、在るという存在。

それが、現象とダイレクトに一つになっていて、
それを、概念上で、
「自分」と「起こっている事。」
と言ったように分けていただけなんです。

そして、
現象の中で意味付けをした時だけ、その意味づけされた何かが、
見かけ上に現れてきているんです。

本来の現象には、どんな意味も無いんです。

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