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Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

真我は何にもしてません

それのこと

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真我が何かの意図を持って、万物を作ってるわけじゃありません。
あなたは真我の一部である。っていうわけでもなく、
一部どころか、真我そのものであり、それは分割されていません。

真我はあなたを生み出しているわけじゃなく!ぶっちゃけなんもしてないんです。
その何にもない中で想念という夢を見ているんです。

「神のみこころ」みたいなものがあるわけもなく、
「運命」や「宿命」といったものがあるわけでもなく、
「魂のブループリント」なるものがあるわけでもありません。

全てはダイレクトな「それ」だけであり、「それ」以外の何かはありません。

「それ」のなかで、「それ」に説明を加えた時だけ、その説明の中に同化します。
そして、説明に説明を重ねることによって、物語となり、
その物語が現実っぽい見かけとして現れます。

真我とかかいてますけど、
真の自分と、偽の自分と言ったものがあるわけでもなく、
すべては、「それ」だけです。

すべては「それ」だけだから、「それ」を理解する者も、理解される「それ」という対象もないんですよね。

だから、理解することはできず、理解しようとするのではなく、何かするのをやめて同化から距離を置くことで、今まで同化していた現実の見かけを見抜くんです。

見抜く誰かがいるわけでもないので、見抜くぞーと目を見開く必要もなく、ただただそのまんまにリラックスしていくんです。

でも、リラックスしている誰かがいるわけでもないので、限定された自分と言うりきみを抜いていくって感じです。

限定されたものが抜けていくから自由になっていくんです。

理解して吸収しようとするクセからの解放ですね。

このクセが、つかみどころの無いモノを掴まないまま宙ぶらりんにしておくのを、
なんか気持ち悪く感じさせるんです。
つまりどーゆーことやねーん!と解明しようとするんです。

解明が悪いわけじゃありませんし、
解明のクセを封じ込めようとしても無意味です。

ただ、このクセに埋没しないでいるだけです。

解明しつつも埋没してない感じです。

どうしてもこのクセが残ってしまうので、
真我とはこうである!
とか、
本当の悟りとはこうである!
とか、
悟った人間はこういうことをしない!
とか、
宗教の悟りは間違っている!
とか、
あの人は真の覚者である!
とか、
あの人は覚者ではない!
とかとか、

そんな議論が出てきてたりします。

その全てが、想念の上で繰り広げられる物語なんです。

真我も無けりゃ、悟りと言うものも無く、覚者と言う人もおりませんし、聖者と言う人もいてません。
スピリチュアルな精神世界と言うものがあるわけでもなく、
高次元の誰かがいるわけでもなく、
だからといって、
日常と言う現実があるわけでもないんです。

いずれも想念上あるように仕立て上げられているだけです。

想念上に仕立て上げられているものというのは、オママゴトのルールのようなものなんです。

オママゴトをやっていることを忘れると、そのオママゴトが失敗のできない何かに変わっていきます。
すると、不安やら恐怖のような感覚が出てきて、
~であるべき!
~であるべきではない!
みたいなものがどんどん出てきて、
自由さがなくなっていくんです。

そして、その窮屈さに疑問を感じだしたりするんですよね。

元々は自由なんです。
元々は幸せなんです。

その幸せで自由である中で、
見かけ上の不自由を演じたり、不幸を味わったりしているんですよね。

それが窮屈になってきたら、表れてくる観念を一切ほっておけばいいんです。

観念を相手にしない。

すると、元々に戻ってくるんです。

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