思考とか感情とかね。
そーゆうのがひっきりなしにやってくるじゃないですか。
でね、それらを封じ込める術をね、身につけたらそういった思考や感情とかが、現れなくなるんやなかろうか?
とか、
悟りを開いた暁には、もう思考や感情が現れなくなる。
みたいなね。
そーゆうことじゃないんですよね。
無思考の中に埋没する瞑想を何回やったところで、
それとは関係ないんです。
思考とか感情とかは勝手に起こりますよね?
自分が起こしてるんやったら、
起きないようにするのも簡単なはずですがそうはいかないですもんね。
ということは、
思考とか感情をコントロールする誰かってのはいないってことなんです。
なので、こんなんはほっとけば良いんです。
参照しないとか、置いておくとか書いてますけど、
ま、よーするにほっとくということです。
見てみると良いんですってのもよく書いてますが、
これはほっとくということのいとぐちを見つけるためって感じなんです。
基本はほっておけばいいんですが、そうもいかない場合は、
一旦、落ち着いて、見てみたらいいんです。
詳細に観察して、ってことでもなく、ただ見てみるんです。
見れるということは、なんていうか距離があるというか、ここじゃないということになりますよね?
例えば、自分の目ん玉は、見れません。
見れるものは、自分の目ん玉と距離がないとダメですよね。
ということは、見れるものってのは客体なんです。
つまり、見れるものって自分以外やないですか。
ま、実際には距離があるわけじゃないんですが、
みることによって、ほっとけるいとぐちが見つかるんですよ。
見れる、観察できるというのは、
ここにはないということです。
ここにはないということは、作り出された物語ということです。
僕らは、見ている物語をそのまま現実として受け止め、その物語の中に埋没した感じになって、見ているという主体を見失っちゃってるんですよね。
本当のところは、その主体ってのもいてなくて、「それ」しかない。
ってことが明らかになってくるんですけど、
その明らかさの中で、二重、三重に絡まった観念みたいなのがあるんですよね。
ま、何れにしても、
そういった観念を突き止めようとしなくても、
ただただ、ほっとけばそれでいいんです。
ほっとけないのならば、そのほっとけないというエネルギーが分離のエネルギーの正体なわけです。
その正体がバレれば、エネルギーは行き場を失います。
だって、それってないもんですからね。
どうしてもあるように見える。
って言うくらいしつこいリアリティを持ってたりしますけど、
よくよく見てみたら、ないことが明らかになってくるんです。