Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

解釈と現実の関連性が明らかになると自由になるんです

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ネコはネコ目ネコ科
そして犬は、
ネコ目イヌ科です。

というわけでおはようございます。
タクさんです。

僕らが現実だと思っているものってのは、
想念に対して判断された解釈に基づいていて、
この解釈を現実だと扱っているんですよね。

解釈ってのは人それぞれなわけで、

以前も書いたかもですが、
コップに半分入っているミルク。

このミルクを
まだ、半分もある。
と思うのも解釈ですし、

もう、半分しかない。
と思うのも解釈です。

よく流行っている引き寄せの法則とか、
ポジティブシンキングみたいなやつってのは、
この解釈の仕方を何とかコントロールしようぜ!
っていう試みですね。

解釈の仕方のクセを直していけば、
良い事ばっかりが起こってくるという理論です。

ミルクはまだ、半分もあるぜ!ラッキー!
っていう解釈をクセづけていくんですよね。

現実っていうのは、そういったポジティブな解釈をしていけば、
より本当の良いことが引き寄せられてくる。

みたいなものじゃなくて、
単純に、
解釈=(イコール)現実なわけです。

だから、引き寄せっていうのは、ちょっと言葉に誤解がありますね。

ただし、解釈=現実なわけですから、
この解釈が変われば、現実も変わるわけです。

現実が変わる!なんていうと、なんていうかすごい事のように感じるかもしれませんが、
単純に解釈が変わっただけなんですね。

で、ホントのところは、解釈にポジティブもネガティブも無いんですよね。

さて、
この解釈っていうのは、
想念に対する判断です。

想念とは起こってることに対してレッテルを貼ったようなものですね。

ちなみに僕が言っている「それ」とは想念になる前の、ダイレクトなそのまんまのことです。
あるのは「それ」だけなんです。

例えば、
一枚の紙切れがある。
それをお金とみなす。
皆がそれをモノと交換できるお金だとみなしているから、お金とモノとの交換が可能になる。

みたいなね。
まさにオママゴトを人間同士でやってるわけで、
みんながお金じゃなくてただの紙きれだとみなしていたら、お金じゃなくなるんですよね。

なので、お金っていうのは信用で成り立っているわけです。

信用という実体のないものに対して、お金って成り立っているんですね。

僕らの現実も、そういった解釈で成り立ってるだけなんです。

話変わりますが、
バカの語源ってね。
昔の中国の始皇帝って人の跡継ぎだった二世皇帝の時代。
絶大な権力を握っていた始皇帝さんは急に死んじゃったものだから、二世皇帝には実権はなく、側近の宦官が実権を握っていました。
この宦官が、
ある日、鹿を連れてきて、皇帝に、
「馬を献上しに来ました~。」
って言ったんです。

それを見た周りの取り巻きさんたちが、
いやいや、これは鹿じゃないか。
って突っ込みいれたり、
いやー、さすがに良い馬ですなー。
っておべっか使ってみたりと、

ちょっとした馬・鹿、論争が起こって、
その後、鹿と言った人たちが粛清されたっていう事件が語源になってる。なんで話しがあるんですけどね。

僕らも、もしかしたら、
解釈の上でバカをやってるだけなのかもしれませんね。

 

さてさて、
ちょっと話がそれましたが、

解釈ってのは、正しいも間違いも無いわけです。

少数派の解釈だけが、なんか異端扱いされたりするわけですが、
べつに、それが間違いというわけでもないんです。

解釈じたいに、それを正しいとする。という意味も含まれているわけですからね。

そうなると、
紙切れをお金とするのもひとつの解釈なら、
この紙切れはお金なんかじゃない!というのも、ひとつの解釈になってしまうんですね。

で、解釈上の現実だけに囚われていると、
あらゆることが解釈として受け取られてしまいます。

非二元のメッセージも、ひとつの解釈とされてしまうんですよね。

解釈の中に囚われれば囚われるほど、リアリティーは増していきます。

解釈=現実だから、よりリアルになってくるんです。

そして、リアリティーが増せば増すほど、自由が失われるんですよね。

げ・ん・じ・つ!!!

って、なんか自由じゃないんです。

解釈はある種の取捨選択なので、
自由度が狭まるんですね。
重ねれば重ねるほどね。

もしね、
なんとなーく言葉にならない不自由感を感じているのだとすれば、
この解釈というシステム自体を一旦わきに置いてみたら?

というのが、僕がおススメしている事です。

一旦わきに置いておくことによって、
解釈は、あくまでも解釈でしかなく、
その実態のなさが明らかになってきます。

そうやって見てる自分さえも解釈の一つだと明らかになった時、
分離感がとけて、解釈は意味を失うんです。

一度、分離感がとけても、まだまだ解釈の癖は根強くて
戻ってくるかもしれません。

でも、ほとほと解釈の実態のなさがあらわになってきたならば、自分という概念のなさも明らかになるんです。

あとは、自由に自分解釈を披露したところで、
この解釈のウソさの見抜きは明らかなままなんです。

現実は解釈に過ぎない。
だから幻想なんだーと、現実にそっぽを向けるんじゃなく、

現実はひとつの解釈であることが明らかなまま、現実に身を投じるわけです。

一見矛盾があるように見えますが、
解釈の意味づけが力をうしなうと、その矛盾も無いんですよね。

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