Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

意味からの解放

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私はいない。
とか、
全ては完璧で、すでに「それ」である。

ってね。

なんとなく、分かるような気もするけど、
で、
それって具体的にどういう意味なんでしょう?

そういった悟りとかの話しにどういった意味があるんでしょう?

って、いいますとね、

意味なんてないんですよね。

そういうのを知ったら、具体的に何がどうなるんですか?

っていうのもね、
どうにもならんのです。

意義ってのもないんです。

どちらかというと、
意味とか意義ってものに振り回される必要ってないんじゃないの?
という事なんです。

なので、どうしても意味や意義ってもんを追い求めてしまうというのであれば、
意味について、今一度、問い直してみたらどうでしょう?
ってな話でありまして。

もちろん、
何かしらの意味のある事、意義のある事をやるのって
べつに良いと思うんですよ。

そういう気分の時にはそうしたら良いんです。

そういう気分ってのは、意味と意義とか、
そういうのを確かめてみたい気分の時。

っていうことなんですが、

その場合、あくまでも主人は自分であって、
※自分はいないはちょっと置いておきます(笑)

意味は意義は1つのお膳の上のおかずのひとつのようなモノなんです。
ツールみたいな、遊び道具みたいな、そういうものなんです。

それがいつしか、意味や意義に主導権を奪われてしまってる感じになってるとしたら、
ものすごく窮屈になっちゃうんですよね。

意味や意義って結局、行きつくところは、
自分にとってより良くなる何か?なのかどうか?
みたいなね。

そういうところに行きつくように思います。
他の人、社会にとっての意味や意義ももちろんありますけど、
それも、自分にとっての他の人、社会ってことになりますしね。

でも、
よくよく考えてみると、
意味とか意義って
なにかしらの形があるモノでもなく、
大義名分っていいますか、
後付けされた能書きのようなものと言いますか、
実体なんてないじゃないんですよね。

なんとなーく、心を納得させるような説明文。
みたいなね。

そんなものに主導権にぎられちゃうと、
そりゃ、しんどくなってくるんですよね。

だって、いくらでも、意味とか意義って作り出せるものなんですもんね。

心を納得させたいのは、そこにリラックスしたいからだったのに、
その納得させたい意味や意義がいつまでたっても完全完璧なものになってくれないんです。

それは、意味とか意義ってのは、作られた物語のようなものだからです。

だからといって、
意味とか意義ってのは、物語だから、
そんなものはナンセンスなんじゃー!ってね、
思いっきり否定したところで、
それはそれで、
「物語には意味は無し」
みたいな、意味づけをしてたりしますので

結局のところ、意味を追い求めて、意味に主導権を握られてしまっていることに変わりはない。
ということになって、
それはそれで、ここで言ってることとは違うんですよね。

ここで言ってることは、
なんの実体もない意味とか意義に、主導権を握られてしもてるんと違いますやろか?
ということです。

私はいないんだから、
すべて幻想なんだから、
こんなことも意味がないから、

って、私はいないということを理由に、
虚無主義的なものにまきこまれちゃったりっていうのも、
結局は、意味や意義に囚われちゃってるからであってね。

そーいうことじゃないんです。

で、面白いことに、
意味とか意義というものの実体性のなさ、
そういうのが見抜けてくると、
意味とか意義って自分っていう感覚に伴って出てくるもんであって、

その自分っていう感覚も実体がなくて、ただの分離感のような感覚でしかなくて、

ありゃ?

意味のなけりゃ、意義もなく、
それらが無けりゃ、
何が良くて何が悪いってな判断も居場所がなくなり、
それを身に着ける自分もいなきゃ、
自分と自分以外の何かというような分離も居場所を失いまして、

結局のところ、
なんもないやん。

みたいなね。

自分でそうみなしていた、意味や意義のストーリーに、
自分自身がからめとられていた。
その自分自身もストーリ上に作られた概念にしか過ぎなかった。
そんな、一人相撲に笑っちゃうんですよね。

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