声にならない声とは、
言葉になる前の声。
ダイレクトな感覚そのものです。
言葉とは思考の材料となりますが、
ダイレクトな感覚そのものには、本来言葉はありません。
あらゆる感情を言葉でもって、無理くり当てはめていたりするわけですが、
本来のダイレクトな感情そのものは、言葉で表現されたものではないんです。
ダイレクトでそのまんま受け取るとは、言葉のレッテルを参照しないということです。
言葉というレッテルは、さらなるレッテルを生み出し、
またさらに言葉が付け加えられていきます。
この作業を繰り返すことは、ある種の興奮を呼び、
楽しいことでもあります。
だから、思考はひっきりなしにその作業を繰り返します。
そうして、何かしらの解決策を探ろうとするわけです。
この行為が探求です。
なんで?
つまりどういうこと?
を繰り返します。
そして、この先に、
完全に納得できる答えにたどり着くことはないんです。
一旦は、わかった感じになって落ち着くかもしれませんが、
新しい問題が現れてきます。
また、未解決な問題。
未解消感情は、
何かのきっかけでもって、ふと現れてきたりします。
僕らは、いわゆる嫌な感情に対しては、
それをなんとか抑えこもうとしていまいがちです。
でも、抑え込まれた感情は何かのきっかけでふと出てきたりするんですよね。
で、またそれを抑え込むにはどうしたらいいんだー!
てな感じで探求は尽きないわけなんです。
嫌な感情だろうが、なんだろうが、
一回、その感情の、
声にならない声を聴いてあげたら良いと思います。
▪️▪️▪️
さて、嫌な感情。
例えば、
怖い。悲しい。辛い。といったもの。
その感情の声にならない声。
つまり、言葉になる以前の感覚。
ダイレクトな感情とは、
怖い、悲しい、辛い。
みたいな感覚。
それだけです。
あえて言葉で書いていますが、実際は、
怖いとか
悲しいとか、
辛い。
となる以前の、何かしらの感情です。
これをそのまんまに聴いてみるんです。
実際に耳で聞くのではありません。
ただ、その感情がここに起こることを許してあげる。
そのまんまにしてあげるということです。
言葉を付け加えず、無条件にそのまんまにしておくんです。
すると、条件というのも、もともとあったものじゃなかったことに気づくかもしれません。
条件ってのも言葉や思考の物語の上だけにあったものに過ぎなかったんです。
言葉、判断の先にだけあったものなんです。
となると、
条件のない、無条件な何かが感情を支えているということに気付けるんです。
そして、この無条件さこそが愛と表現されているものです。
無条件の受け入れです。
すでに、無条件は受け入れられていたことを悟るんです。
あらゆることは、無条件な愛の中で、言葉にならない
声にならない声として起こっているんです。
無条件さとは、愛であり、そして完全さです。
そして、その完全さ以外の何かがあるわけでもなく、それが全てなんですね。