Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

理解というまな板の上に

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私はいないとかね、
私とか自我っていうのはある種のエネルギーであって、実体はない。
とか、
そういうことを、自身の体験を通したりして
理解してる人も結構おられると思います。

えらい聖者さんとか、
エロい先生とか、
そういった方々の
澄み切った言葉に接した時に、
あ、、、
ってわかったりね。

僕らってどうしても
何かを、わかったこととして
どっか記憶の片隅にとっておいて、
いつでも取り出せるようにしておきたい。

ってね、
思っちゃうんですよね。

普通はそれでうまくいくんですもんね。

操作の仕方、手順、
ありとあらゆるルール。

そういったものに関しては、
この方法はとってもうまくいきます。

だからそうやってやってきているわけです。

気づきっていうのは、
そのわかることによって、何かをとっておこうとするクセを知るということなんですよね。

そしてそのことを知るとそのクセから自由になれるわけです。

クセはクセとして起こり続けますが、
そのクセにとらわれることがなくなるんですね。

足るを知るってね。
もしかしたら、
そういった
何かをわかったり手に入れたりしてとっておこうとする、
この一連のシステムに対する見抜き。
このシステムの上で、
何かを得たり、とっておくことって
本当はできないんだよねー。
っていうことを知る。
ということなのかもしれませんね。

よく、僕自身も、このブログなんかで、
あらゆる修行や一瞥体験、
そういったものと悟りって関係ないんですよね。
って書いたりもしてますが、

修行だって、何かを得たりとっておきたいというシステム上で起こっていることであって、
体験だって、「それ」を体験として、一つの記憶としてとっておこうとすることだからなんですよね。

ホントはとーってもシンプルで、
なんてことはなく、
だからと言って、わかることもとっておくこともできず、
言葉で説明することもできない。

なぜなら、
わかったり、取っておくこと
という一連のことが、
一つのクセでしかなかったという見抜きだからです。

言葉で取っておくことができないから
言葉にできないだけなんです。

言葉にできないほど難しい何か?
ということじゃなく、
わかることができないほど深遠なもの。
ということでもなく、

ただただ、シンプルでダイレクトで、
当たり前のことなんです。

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