分離とか手放す~とかね。
言ったりしますけどね。
この分離というのは、分離感のことであって、
自我と真我といったように、実際に分離していたりするわけじゃないんですよね。
色と空。
みたいなものがあるわけでもないんです。
そんな分かれてる何かがあるんじゃないんですよね。
だから
色即是空、空即是色
なんです。
一緒やねん!
という事なんです。
一緒やねんということは、色とか空とかがあるわけじゃないという事です。
感覚としての分離感が勝手に分かれとるように装ってるだけなんですね。
分離があるわぁ~。
とかね。
思ってたとしても、実際になにかが分離してるわけじゃないんですよ。
分離感ってのも感覚でしかないんですよね。
まだ自我があるわぁ~。
とか思ってたとしても、自我と言うなにかがあるわけでもなし、
真我を発見した!と思ったとしても、
真我と言う何かがあるわけでもないんですよね。
どこかにそういうものがあると思うから探してしまうわけで、
んなもんなかった!というのが見抜かれるのが、
探究の終りなわけなんですよね。
この無いってのは知識で得るものでもなくて、
なーんもないはぜーんぶあると同じ事なんやんかー。
ということが見抜かれるってことなんですけどね。
分離感だけが、ウソなんやーん。
自分と何かが分かれて存在している。
みたいな感覚だけが、ウソなんやーん。
ってのが見抜かれるだけなんです。
それが見抜かれたところで起こってることの何かが変わるわけでもないんですよね。
実際に分離があるわけではなく、
ただ単にそういった感覚があるだけなんです。
この分離の感覚が強ければ、
誰かと比較したり競争したり、その結果として劣等感が強くなったりってね。
そういう感覚も、分離の感覚の副産物として出てきたりするわけです。
実体のない感覚としてね。
はたまた、
高次元のハイアーセルフとか、アシュタールゥ~とか、
光りと闇の争いとかとか、
そんな存在も分離感が生み出しているわけです。
物語としてね。
やれスピリチュアルの修行だーとか、
脱スピリチュアルだとか、
そんなのもどちらも一緒で、ただ物語として現れておるわけですね。
どんな物語も面白く楽しめばいいですし、どちらが良いも悪いもありません。
そして、感覚なので、どんな物語でもあり得るわけです。
ですが、この感覚を追いかければ追いかけるほど、感覚の中にからめとられてしまいます。
物語に夢中になる。みたいなもんですね。
で、感覚にからめとられるほど、不自由感を感じて、
この不自由感からより良くなろうとすることによって、探究が起こるわけです。
この探究が、感覚の世界の中で何かを掴みとろうといった方向に進んでいくと、
それも物語に夢中になるのとおんなじで、感覚の中にからめとられてしまうのと同じになっちゃうんですよね。
金さえあれば幸せになれるはず!
とか、
権力を握れば幸せになれるはず!
とか、
悟りを開ければ幸せになれるはず!
とか、
特別な能力を手に入れれば、、、!
とかね。
そうすればそうするほど、お金とか権力とか悟りとかにこだわっちゃうんです。
いずれにしても、自分が何かを手に入れるという概念は、分離感という大前提があって成り立ってるんですよね。
分離感と言うのは感覚であって、
分離があるという錯覚なんですね。
これが錯覚と見抜かれるのが、見抜きであって、
それって、分離感を手放そうとして手放すのではないんです。
手放そう、手放そうとするのは、この分離があるというリアリティが前提になりますからね。
あー、まだ分離があるわぁ。
手放していかなきゃいけないわぁ。
みたいなのって、もう、分離さんが存在してます!
と証明してるようなもので、錯覚にリアリティを与えてるようなものなんですよね。
いつまでたっても終わりません。
カルマの解放がいつまでたっても終わらないのと同じです。
なので、僕はただ、見てみるっていうのをおススメしてます。
ホンマにそれ、あるんか?
ウソやないのんか?
誰かに習ったことやないのんか?
そんな気になってるだけやないのんか?
赤ちゃんの頃からあったことなんか?
ってね、ただ、見てみるんです。
確かめてみるんです。
どこかの偉い聖者が、
なにかしらの聖者パワーで
ドドーンと消し去ってくれる!
みたいなもんじゃないんですよね。
感覚という錯覚が見抜かれるだけで、起こってることが変わるわけじゃありません。
目の前に起こってること。そのまんまがそれそのものなんですね。