Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

疑問の余地がない明確さ

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「それ」ってーのは、明確さです。
明らかに「それ」しかないという事なんです。

でも、じゃあなにが「それ」なんや?といいますと、
何でも無いモノ。
くらいしか言いようがありません。

どないやねーん!

って言いたくなる人もいるかもしれませんね。

よくね、

目覚め。

とか言われてたりもしますけど、

目覚めってーのは、ただそのまんまだということ。

ただただ、
そのまんまですやんか!

ってことでしかないんですよね。

そのまんまじゃない何かに巻き込まれている気になっている。
その巻き込まれてることから外れると、
そのまんまが残るというわけなんです。

巻き込まれている気になっている。
ということは、
実際に巻き込まれているわけではないんですよね。

巻き込まれから外れること。
これを誰かが「目覚め」と表現しているわけです。

で、

明確さというのは、
疑問の余地がないという事なんですが、

なんで、そんなに明確だと言えるんだ!

ってね。

思ったりもするかもしれません。

このカラクリはですね。

結局「わからなくていい」という許しがあるから。

なんですよね。

ちなみに、説明のできる何かしらの理論っていうのは、
どこかに、どうしても疑問の余地が残ります。

地面が下で、空が上!

みたいなわっかりやすい理論でさえ、

地球の裏側から見たら逆やん!
だからあんたが勝手にそう思いこんでるだけやーん!
ってなるんですからね。

本来はなーんにもわからなくてええねんでー。
ということ。

分かろうとするという事は何かを掴みとろうとしている事なんですけど、
何かを掴み取りたいという衝動は、
そこに分離があるからなんですよね。

で、その分離が見抜かれて、
分離を保つ意義が失われていくと、
何かを掴み取らなきゃならないといった信念が行き場を失うんですよね。

そうなると、つかみ取ろうとすることに巻き込まれなくなります。

っていうか、なにかを巻き込もうとするモノも、巻き込まれる誰かも
さいしょっからおらんのです。

つかみ取ろうとしないという事はわからんでもいいという事です。

頭の中で「わからんでもいいんや!」と思いこもうとしても、
結局そのことを分かろうとしているから
まだそれは巻き込まれていることになるんですが、
そういったことの意義のなさが見抜かれると、
ただ、そのまんまということが明確になるんです。

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