ほほーん!
おはようございます。タクさんです。
僕らに起こることってどんなことでも、それを見てるからこそ、起こってる感覚がつかめてるんやと思うんですよね。
ってことは、なんでも見れるはずなんです。
っていうかすでに見てるはずなんですよね。
歌を歌っていても、歌を歌っているという経験を見ることが出来ますし、
こうやって文章を書いていても、文章を書いているっという自分を見ることが出来ます。
あ、目で見るんじゃないですよ。
何か起こってるなーって、観照できるっていう意味です。
なんか、嫌な気分になってたとしても、嫌な気分になってるなぁ~っていう気分も観察できるわけです。
ゆーっくり、深呼吸して、
ちょこっと落ち着いて、
確かめてみるんです。
今、起こってることって、自分の中以外で起こることが出来ますやろか?
と。
自分の中以外で起こってることって見てみることが出来るんやろか?
ってね。
・・・
ね。
んなこと無理なんですよ。
逆に言うと起こってることは全部、自分の中にあって、
中にあるという事は見ることが出来るんです。
そうすると、
おおー!なんでも見ることが出来るでー!
ってなことに気がつくかもしれません。
あれも見れるし、これも見れる。
怒ってることも喜んでることも見れる!
でね、
そうやって見てるとですね、
空に浮かんでる雲も、遠くに見える木々も、
ぜーんぶ、この見てる中にあるんやんか。
みたいなね。
そんな感じになってくるんですよね。
ぜーんぶ、自分の中に在る。
みたいにね。
無きゃ見れてないですからね。
で、自分の中にあるモノに対して、遠くにあるとか近くにある。
みたいな思考のイメージを付け加えてることも、見ることが出来るんです。
ほほーん。
そんな認識してるんやねー。
うん、見れるでー!
てなもんです。
自分の中で見れてるということは距離は無いんですよね。
だって、どこに自分がおるねん!
ココでしょ!
いつおるねん!
今でしょ!
と言うわけですからね。
で、この辺が極まってくるとですね。
自分が見てるという感覚さえも見れてしまう。
んなことに気づいた時、
この「気づいた」も見れてしまう時、
見てる誰かという感覚さえも見れてしまうとき、
見てる者もいなくなります。
っていうか、最初からいなかったわけですな。
鑑賞者という概念も落ちちゃうんです。
誰も見てさえもいなかったんですよね。
あるのは「これ」だけ。
明らかな「これ」だけなんですよねん。