内側の自分を見出した時、外側も内側もなかったことが明らかになる。
全ては、自分の内側の中で起こっていた物語。
自分の中で、
内側と外側を作っていただけ。
そのいずれも自分の中でつくられたと気づく。
そして、さらに面白いのは、その物語は作られたように見えて、
誰も作ってなんていなかったことが明らかになってくる。
あったのは、この体験、経験だけ。
自分に起こっていたという観念も、一つの経験だったことが明らかになる。
そして、それが明らかになったらどうなるかというと、
何にも変わらないんですよね。
本当に何にも変わらなくて、何かが良くなるということもない。
なーんも変わらない。
ということ。
そのことが「それ」を受け入れられない原因になってたんだよね。
なぜなら、何かしらがより良くならないとダメだ。
何かしらの意味や意義がないとイヤだ。
ってな思いにがんじがらめになっちゃっていたから、
何にも変わらないが受け入れられない。
だから、「それ」とは光り輝く何かであってもらいたかったんです。
さーて、そうなると、そういったあらゆる欲。
より良くなりたいという欲。
何かを意味付けしたいという欲。
そんな欲から解放されるのではなかろうか?
なーんてね。
そんな風に思っちゃったりもするんですよね。
そういった欲から解放されると、
そりゃさぞかし楽になるような気がする。
だって、欲しくならないんでしょ?
ええやん!
ってね。
でも、そうじゃなくて、それも変わんないんですよ。
お腹は減るし、甘いもん食べたくなりますし。
何やねん!
ラマナさんみたいに、完全に物欲がなくなって、
なんかすんごい沈黙のオーラが身の回りにまとわれて、
ずっと微笑みが絶えないような。
そんな至福に包まれるんやないんかい!
ってね。
思うかもしれませんが、
それも全部イメージとして起こってるだけ。
そんなこんなで、ありとあらゆる思い込みは完全に否定され、
じゃあ、そういった思いやイメージは間違いなのか?
と言うと、
さらに、そういったイメージも間違いであるといった思いさえも否定され、
間違いなんて、起こりえず、
全てが完璧にただ起こっていた。
それを経験している誰かもおらず、それを見てる何かもなく、
それでいて、しっかりとした存在は間違いなくある。
何かを体験したり、経験している誰かはいないけど、
経験や体験そのものはしっかりと経験されていて、
その体験そのものが自分であり、そのものしかない。
そのものしかないから、それが全部。
選択肢がないから、すでに完璧。
見かけの物語はいくらでも作れるように見える。
だから、どんな物語の中にいても、もっとより良い物語があるように感じる。
なのでいつまでも完璧は訪れないんですよね。
でもその物語さえもそのまんま、物語が起こってるだけだったとしたら、、、
そのまんま、それが起こってるだけ。