Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

自分という主体について

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おっはよーございます。

なんていうか、ちょっと夏バテ気味のタクさんです。
皆さんご機嫌いかがでしょうか?

今日はねー、主体と客体という視点から自分を見てみるという思考実験について書いてみたいと思います。

どういう事かと言いますとね。

例えば、何かを見てる客体があるとするならば、その客体は主体ではないですよね?

それを見ていくんです。

???
どーゆーこっちゃ?

って思われるかもしれませんね。

ちょっと試してみましょう。

例えば、目の前にある、木。

自分が木をみてるんですから、木は自分じゃないですよねぇ?

木は見られる客体であって、主体ではない。

なので、木は主体ではない。

つまり自分ではない。

うん。そりゃそーですよね。

では、
目の前の他人。
歩いてる人だったり、信号待ちしている人たち。

これも客体ですよね。

自分が見ているわけですから。

自分が見ているという事は、自分じゃない見られる対象であるわけですからね。

うん。
その調子。

見ることが出来るのであれば、それは主体ではないはずですよね。

では、手を見てみましょう。

手は自分???

でも手を見ているし、感じている。
主体と客体の関係性が出来ていますね。

だったら、手は自分じゃない。

うん。

ついてこれてますか?
ゆっくり確かめてみてくださいね。

では次は、
思考とか感情を見てみましょう。

自分が考えている事を意識できますよねぇ?

考えを見ることが出来る。

感情も同様で、見ることが出来ますよね?

と、なると、
思考や感情も客体であって主体ではない。

だって、自分が見てるんですもん。

では、
身体の感覚は???

これも見ることが出来ます。

おーーー。
身体も見れるわ。。。

じゃあ、主体じゃなく客体だわ。

 つまり、身体も自分じゃないってことや。


じゃ、最後に自分を見てみましょう。

見れますか?

・・・


え!!!!?????


なんか、自分だと感じていた感覚は見ることが出来る。

でも、見れるからこれは客体だし、、、

あれれ????

何でもかんでも見ることはできる。

そして見ているという事は、これらは全部客体であって、主体じゃなくて、、、

つまり見ているものの中に自分なんてものは無くて、、、

おおおおー!


■■■


そうなんです。
実はだれも、自分なんて見たことが無いんです。

どこを探してもいないんです。

えええ?

じゃあ、この主体はどこにあるの???

ってね。なるじゃないですか。

無いんですよ。
どこにも。

僕らが見てるのはぜんぶ主体に対する客体だと思っていた。

どこかに主体があると感じていた。

でも、
主体はどうやってもどこにもない。

最初から、あるのはこの客体だけだった。

目の前にある木も、目の前を通り過ぎる人も、
身体の感覚も、
手も足も、
自分と言う感覚も。。。。

全部、同様に
見たという経験にすぎず、

ここに差がなく、、、

そして、それを見ている主体はどこにもなく、、、、

ほんと、あるのは「それ」だけ。

「それ」とはなんか新しいモノじゃなく、目の前にある「それ」だけ・・・

主体がない。
自分なんて、
誰にもどこにも、最初っから無かったんです。

ラマナさんが言う、私は誰か?の真髄は、

 

この、、、、

 

主体のなさです。

 

 

主体性のなさではないですよ。
そういったものは起こります。

自分っぽい何かも起こります。

外に吹く風と同様にね。

ここに差がない。

 

ひとつ。

 

「それ」

 

 

主体と客体なんていう分離も最初っから無いんです。

だって、主体がどこにもないからです。

分離がないから、非二元なんです。

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