Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

質問の返答編パート3:起こっていること、起こってないこと

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おはようございます。
タクさんです。

今日はいただいた質問の返答編パート3として
起こっていること、起こってないこと。
とか、
嫌な感情とか。

その辺についてをテーマに書いて見たいと思います。

■■■

ほら、人って基本的に何かを判断して、その判断上で世界を構築して、
理解して、
で、その構築された理解の中で生きてるじゃないですか。

でね、
ここで書かれているブログみたいなことのメッセージってね。

それだけやないんやで。

ってことを表現しているんですけどね。

まあ、他に何かがあるというわけでもないですけど、

あまりにも構築された理解の中だけで生きてるとね。
その自分自身が作った世界の中で息苦しくなってしまうっていうかね。

でも、その構築された世界観そのものが、幻想みたいな。
概念みたいなもんじゃん?

ってね。
そういったメッセージなんですよね。

だからと言って、別に概念上で生きることについて
良いも悪いもないんですけどね。

みんな常に概念上で生きているのかといいますと、そうではなく、
よくよく観察してみると、
結構、その概念が起こっていないそのまんまの時もあるんですよね。

フッとリラックスした瞬間なんかにね。
で、また自我が作る物語の中に入っていくというかね。

苦悩というのはこの物語の中にしか無いんです。

構築されたり理解されたりできない、
何も手を加えられてない、加えられない。

概念を手放した後に残るものを「それ」と表現していたりしますけど、
これって、表現できないものをただ便宜上表現しているだけであって、

もともと在るものなんですよね。
「それ」って。

そしてその「それ」が悟りとかワンネスとか
そういう風に便宜上呼ばれているだけであってね。

で、起こっていることと起こってないこと。

についてなんですけどね。

起こっていることも何も捉えずにいたら、
何にもないがただ起こっているだけ。

みたいなね。

そんな感じになるんですけど、それに便宜上
いろいろと起こっていることに名前や原因や感情をくっつけているわけです。

だから、いわゆる非二元的な先生とかが
「何にも起こってない」
っていうのは、
起こっていて起こってない。
というなんとも言えない「それ」を表現しているだけなんです。

つまり、
起こっていることは起こっていること。
起こっていないことは、何にも起こっていなく現れていないこと。
みたいな二元的な概念で捉えられているという大前提のもとで言われている
起こってない。
とはちょっと違う意味なんです。

起こってないんやったら、何か危険が迫ってきても逃げないのか?
そういう人は?

みたいな解釈をする人もいますけど、

その解釈自体も、まず誰かがいて、いろんなことが解釈されていて
っていう大前提。
二元的な大前提が当たり前にあるという前提でもっての解釈なんですが、

ここで言われていることは、この解釈自体が実体のない物語みたいなモンやん。

ということなんです。

だから起こってないとはどういうことだ!
ってね。

考えたりしてもその先に答えがないんですよね。

何かを解釈して捉えるという習慣。
その習慣を超えた話だからですね。

かといって、なんかスゴイことなのかというと、
そういうことじゃなく、
みんな実は当たり前に知ってることでもあるんですけどね。

「それ」っていうのは、捉えようとするとすぐに逃げてしまうんです。

だから、どうしたらええねん。
と言いますと、
捉えようとしているクセを見てみる。
くらいしか、しようがないんですよね。

■■■

さて、
嫌なことについてですが、
人間ってあらかじめ自主防衛本能みたいなモンが備わってると思うんですよ。

以前にもどっかの記事でそのことは書いたと思うんですけど、

怪我しそうな何かがあったら避けようとしますし、
お腹が減るのもそうだし、
食べるものがなきゃ調達しようとしますし。

そこにね、ワタシっていう概念がくっついているモンですから、
この本能から出てくる感情や考え自身も自分のものだ。
といったようなね、
錯覚も一緒に起こってるんですよね。

で、
自身を脅かすものはそれを抑え込もうとするんですね。

この抑え込もうとするときに起こる摩擦みたいなものが
嫌な感情として認識されてたりするんです。

自分を見てみるという過程においても、
気づかないうちに、無意識に抑え込んでいたそういった感情が出てきて、
苦しんだりすることもおきます。

で、余計に抑え込もう。
嫌な感情じゃなくて、良い感情だけを味わっていたいってね。
願うんですよね。

でも、良い悪いは一旦置いておいて、
そういった感情を抑え込もうとせずに流してあげると
楽になったりするんですよね。

嫌な感情は抑え込もうとするときに起こる摩擦みたいなものが原因であって、
感情自体には実は良いも悪いもないんですよね。

その感情があまりに重い場合は、自分だけでなんとかしようとせずに、
癒しや心理的なテクニックを使えば良いと思うんですけど、

だからと言って、そのテクニックの先に「それ」とか「悟り」があるわけじゃないというのは、
そういうわけなんですけどね。

結局のところ、こういったメッセージってのは、
何かの役に立とうといったメソッドではないんですよね。

散々今まで追い回してきた、何かの役に立つもの。
最終的には自分にとって、役に立つもの。
スキル。

そういったものを追い続けても何かぽっかりと空いた心の穴は埋めることはできないんです。

それを追いかける。
探求からの卒業ってのは、
何かを得たり、何者かになる。

という延長線上でとらえようとするのではなく、
何も捉えずにいるこの手持無沙汰の中で落ち着いてみる。

捉えなきゃいけない。
掴んで理解しなきゃいけないというルールから一旦離れてみる。

どこからどこまでが「これ」で、「これ」ではないのはどこなんだ?
ってのもね、
捉えなきゃいけないというルールの中で起こる衝動なんですけどね。

一旦、その衝動を置いておいてみると良いかもしれません。

全てが「これ」です。「これ」のなかで、何かを限定したときに、
限定されたものとそれ以外という分離が生まれるんですね。

ただある空間にイメージで線引きしてるようなもんなんですよね。

その線引きしているときだけ、その形があるように見えてるというかね。

ほら、大海の中で水をコップにすくうとするじゃないですか。

その時、丸いコップだと、水が丸い形に見えてるけど、
水は水そのもので何も変わらないですよね。

四角い箱に水を入れたら四角く見えますけど、

それも見かけでそう見えてるだけであって、

 

でね、どんなに形が変わっているように見えていても、
水は水なんです。

「これ」のどこまでが「これ」なのか?

っていうのもね。

同じようなもので、ただの空間に線をイメージして
星の形の線で区切ったとしても、「これ」は「これ」ですし、
区切らなかったとしても「これ」は「これ」なんです。

どこからどこまでなんて範囲もなくて、全部が「これ」なんですよね。


と、言うわけで、頂いた返答については一旦ここまでにさせて頂こうかな?
と思います。

答えになっとらんがな・・・
って
多分、満足いかない部分とかもあるかと思うんですけど、
また、何かあればなんなりと、、、

ただ、もちろん、僕が何かを分かっているわけではありません。
分からないままにできない何かがある。
という事は見えるかもしれませんが、、、、

こういった話って、わかろうとすると、ややこしくなりますね。

なので、わかろうは一旦おいておいて、
何かを掴み取り理解するクセを見てみてみることをオススメします。

僕が書いている文章も何かを掴み取り、理解を促すものじゃありません。

何もわからないでいようとするときに、そうはさせたくないエネルギーが湧き出てくるかもしれません。
掴み取らないと気持ちが悪いと動き出すエネルギー。
こいつが何かを形作ろうとしている衝動ですね。
こいつに実体があるのか?
ただ、見てみたらいいと思います。

わからなければいけない!と言う信念を一度、疑ってみるんです。

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