Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

朝起きた瞬間の時点に立ち戻る

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朝起きた瞬間、すぐに観念が世界を構築し出します。
でも、その観念が起こる前には何にもありません。

つまり、何にもなさがあることになります。

そこで、ある種の観念、想念が浮かび上がり世界を作り出しているわけです。
この世界とはまさしくストーリーそのものなんですよね。

過去も未来も体も心も全てこの想念の中でつくられているストーリーです。

とは言っても、それが何になるの?
何の役にも立たないじゃん。
って思うかもしれません。

この何かになるという思いも、
何かの役に立つかもしれないという思いも、
想念の中のストーリーに過ぎないわけです。

何にもない中で何かに見えることが起きてるだけなんですね。

「それ」は、
理解する必要も
身につける必要もないんです。

分かる必要もありません。
って言うか、分かることはできません。

分かる以前のことだからです。

そして、明らかに「それ」しかないわけです。

そっかー!
物語だからそんなに深刻にならなくてもいいんだー。
身体はないんだ。
全ては幻想なんだー。

と言って、
それを気休めにしようとしたところで、
気休めが必要なのも、ストーリーの中でだけ必要なわけで、
ストーリーの中にいる限りは気休めにはなりません。

なので、
ただ、見抜くだけでしかないんです。

深刻さは感じないようにしようとするのではなく、
ただ、深刻さが見抜きによって副作用的に減少していくだけの話です。

「それ」や「悟り」が何かすごいもの。
ブッダのような人にしかわからないもの。

みたいなイメージがあるかもしれませんが、
そういった類のもんでもありません。

それも物語、
想念の中のストーリーの設定にしか過ぎないわけです。

ブッダさんも道元さんも、
ラマナさんもおしょーさんも、
イエスさんも、ヨガナンダさんも、

そういったすげー人がいたんやで!
という話を聞いたこともなきゃ
その辺の知らないおっさんと違いないわけです。

なんか、そういった話を聞いたから、
えらい聖者さんなんやーって、記憶がそういったストーリーを作り上げとるだけです。
これも想念の中の物語に過ぎないわけです。

あるのは、「それ」だけなんです。

朝起きた瞬間の何にもなさに立ち戻ると、
どうしても物語を作り上げようとする衝動に気づくことができます。
その衝動が想念を作り上げて世界を構築しております。

見かけの世界なわけですね。

その起こってくる衝動を、
今だけ脇に置いておきます。

本当はこういった衝動も想念も観念も、
あなたがそれを選び取り行為をしているわけではありません。
あなたのものでもありません。

ただ「それ」自身が起こっているだけです。
それがそう見えているだけなんですね。

なので、あなたが脇に置くわけじゃないんですが、
妙なことに、そのことは、脇に置いた後にわかってきます。

なので、まずは脇に置いてみましょう。

そして、その衝動に力を与えずに、
ただ、そのまんまに緩めてあげます。

緩めて緩めて、
そのまんまにリラックスしてみるんです。

すると、本来の軽さが現れてくるかもしれません。

あ、ほんまや、誰もいなくて何にもない。
それでいて全てがある。

自分が何かをしていたんじゃなかったんやー。
てね、
その見抜きが軽さになるわけです。

最初から背負いこむ荷物がなかったことが見抜かれて、
背負いこむ荷物が消えて無くなるんです。

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