Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

悟りを探しても無駄なんですよねん

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悟りなんてものを探しても無駄なんですよ。
だって、そんなもんは無いからです。

便宜上、ホントはなんもないことを悟りとか呼んでるだけでね。

だからね。それを探そうとしても無駄なんですよ。

探すという探究が終わることですからね。

これは何かの確信を得るということでもなく、
一元的なすごい体験をするという事じゃないんです。

確信や体験はただ起こったことにすぎません。
そして、その確信や体験という物語は、
ひとつのストーリーに過ぎないという事なんです。

確かに僕らは、何かを体験し、何かを選択してるように見えますよね。

そして、なにするかを、自分で決めてるように見えます。
だから、選択が無いなんてのも理解でき無いですし、
体験がストーリーなんだということも理解できないんです。

もし、選択がないというのが理解できるのだとしたら、
もうそこで「選択がない」という理論を選択していて、
その裏で、「選択はある」というのを否定しているんですよね。

ややこしいですね。

そう、ややこしいんです。

何故こんなにもややこしいのか?
といいますと、

この話って何かを理解することじゃないからなんです。
この話は理解の不在を指し示しているんです。

なんでも理解して納得しよう。という流れ自体を手放しましょう。
という話なんです。

つまり、わからんにとどまってみましょう。というお誘いなんですね。

理解は、万能ではなく、理解を追い求めるとそこには終わりがないんですね。

「それ」についての、こういう話って理解することはできないんです。
なんて言われますよね。

これって、理解しがたいほどに高尚なことだからという事じゃないんです。

理解と言うのが万能なのではないということなんです。

理解と納得ということが、様々なレッテルを産み、物語を生み出す元になっておるんじゃなかろうか?
ということです。

レッテルや物語がなくても、世界はしっかりと機能してます。

ただ、何かしらのレッテルのような足がかりがないと人は何かを認識も出来ない。
といった強迫観念をもってしまっているんです。

だから、その世界の中で何かを理解しようとしてしまう。
このクセを一旦取り除いてみましょうよ。
ということです。

理解しても別にいいんですが、その理解は全てである「それ」に何の影響も与えません。

理解のクセを取り除くと、自身は全てであるそれそのものに溶け込みます。

ですが、何かが実際に溶け込むのではなく、元々からそうだったわけです。

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