Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あなたには、ホントに自分はないの?

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あなたには、ホントに自分はないの?

この前、ゲームしてて必死に勝とうとしてたじゃないですか?
服買う時にえらい迷ってたやないですか?

なのに、自分はいないと言えるの?

映画見て泣いてたくせに、
事件のニュースを見てアイツろくでもないなー!
って言ってたくせに。

なんで自分はいないとか言ってるのん?

「うん。いないよ。」
「ただ起こっていただけで、起こったことにいろんな解釈が加えられただけで、
なんでそれで自分がいるってことになるのん?」

■■■

さて、おはようございます。
タクさんです。

今日も私はいない談義をしてみよっかなーって思います。

えーっと。ほら、
みんながブッダとかいうじゃないですか。
だれでもが生まれながらにしてブッダなんです。
みたいなね。

ブッダっていうのは、つまり悟った人みたいな意味でつかわれていますが、
厳密に言うと、悟った人なんてのはおりませんし、
悟りなんてのもありませんから、
なんもない。
というのがブッダの本当の意味なんですよね。

つまりブッダがなんか特別だというわけじゃないんです。
何もないわけですからね。

だから、誰かが何かを有ると定義しない限りは
なーんもないわけです。

ブッダとかいう特別な何かがあるわけでもありません。

何かがあるという定義が起こっているとしたら、
それはなにもないブッダの中でいろいろとじゃれあっとるだけだというわけですね。

でね、
いつしかこのじゃれあいが習慣化されて、無いものを有るとしていた定義が
なんか本当のように思えてきてるわけですね。

その種明かしが、みんながブッダだということなんですね。

「私はいません。起こることが起こってるだけ」
みたいな、
こういうことを言ってる先生なんかに、
「あなたには、自分はいないの?」
って聞きたくなることもあると思います。

これって、
「あなた、ズンドコべろんちょ知らないの?」
と聞いてるのと似てるんですよね。

正直にそのまま答えるとすると、
「あんたかて、ズンドコべろんちょ知らんやろ?」

ということになるんですよね。

いやっ!確かにズンドコべろんちょは有るんです!
って言われても、

いやいや、無いって。
もうええって。
ってなるじゃないですか。

それと一緒で、あんたかて自分なんていてませんやんか。
っていう事なんです。

つまり、
誰にもどこにも、自分っていうものは無いわけですね。

でもね。
なんか嫌な感情とか不安とかがあると、なんかしんどいじゃないですか。

本音としては、これさえなければ、自分があろうがなかろうがどっちでもいいわー。
ってね、
そういう人も多いと思うんですよ。

なんで嫌な感情とか不安があるとしんどいのかというと
本能的な自分を守るという機能が過剰に働いてるからなんですよね。

自分という概念がその機能を過剰化させとるんです。
概念がないと深刻じゃなくなるんです。
最初から深刻なことやないからです。

深刻さと自分って同じ働きなんですよね。

服についたカレーを、
ウ〇コついとるー!って騒いでるのと似ていて、

ラマナさんという偉い聖者さんは、
落ちてるロープを蛇だとおもって怖がってるのと同じ。

みたいな言い方してはりましたけど、

これも自分という概念があるから単なる防衛本能が過剰になっていて、
なんとかこの恐怖を抑え込もうと、安心できる永遠を探そうとしてしまうんですね。

それが深刻さなんです。

自分と深刻さは同じ働きです。

これがないと何が残るかというと、
ワクッとした生命感です。

元々はそれしかありません。

好き嫌いが起こってようが、表面上嫌なことがおこってようが、
それしかないんですね。

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