Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

人生の正解を求める旅

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僕らって、どうしても何かしらの正解を求めたがったりするんですよね。

人生において、何が正解なんだろう?といった具合にね。

人生は選択の連続であって、その選択によって運命が決まっていく。
みたいなね。

そんな思いがあるからなのか、
将来、後悔しないために、
今、我慢して何かをしておく。
といった準備をしようとしたりすることもありますね。

結局のところ、いつか後悔しないために何かをするって、
そのいつかっていつなの?ってことになるんですけどね。
そういう時があるというのも、ある種の錯覚でして、

よかったー!あの時電池買っておいて、、、
みたいなことも、今作り出しているだけなんですよね。

結局のところ、
今、満足しておればいいんです。

満足しておれば後悔はありません。

いつか後悔しないためにという思いがあまりにも大きいと、
いつまでたっても、いつか後悔しないためにという人生が続いてしまいます。

そうなっちゃうと、いつまでたっても満足する時が来ないんですよね。

覚者と言われてる人って、何を知ってるんだろう?
どんな感じなんだろう?

どういった答えに辿り着くんだろう?

そんな風に思ったりもすることもあるかもしれません。

覚者ってのは、何かしらの絶対的な答えを知っとるんとちゃうんやろか?
その答えに正解があるのではないだろうか?みたいなね。

けど、どこかに答えや正解があると思うと、
どうしてもどこかを探しちゃうんですよねん。

でもどこかに行けることってありえないじゃないですか。
どこへ行っても、ここになってしまいますしねー。

タイムマシンに乗って、過去や未来に行ったとしても、
それって今なのと同じで、

どこかへ行っても、常に今とここでしかなくて。

なので、どこかにある答えってのは、つかみようがないわけなんですね。

また、記録は破られるためにある!
みたいなのと同様に、

答えも否定されるためにある!
わけなんです。

完全無欠な答えなんて存在しないんですよねー。

それは、何かの答えや正解ってのは、
何かの不正解や間違いがないと成立しないからなんですよ。

ここが探求のパラドックスになっていると言いますかね。

結局、答えなんてもんはありゃしなかったんですね。

その答えを求める。正解を求めるという衝動の土台に
分離の概念があるからなんですね。

なんでも見通してるような表情をしている覚者と言われてる人はね。

なんか深い笑顔に包まれていて、とても深い知恵を持っているように
見えるかもしれませんが、

実のところ、何かの完全無欠な答えを持ってるんじゃなかったんですね。

答えや正解から解放されておる人だったんです。

つまり、分離の立場から見てみると、
何もわかっとらん人だったということになります。

そして、それでいいんです。

答えがないことを受け入れられると、
将来の後悔のために準備をする必要はありません。

今、満足できるからです。

そして、今満足していると、後悔は現れません。

後悔ってのは、今何かに満足できていないから、
過去にさかのぼって、満足できない理由を探しているという行為だからです。

正解や答えがどこかにあるということはない、
ということが見破られた時に、今、ここに落ち着けます。

その時に、見破られるのは、自分という概念とは、そのまんまイコール答えを探す行為だったということです。

自分=答えを探す行為

ということなんですね。

何かしらの自分という形ある何かがあるわけではなく、
探求のエネルギー、動き。

それが自分だったということなんです。

そりゃー、落ち着くことも出来ないはずです。

だって、動きなんだもんね。

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