Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

他人が食べてるイチゴの味わいを奪うことはできない

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おはようございやす!タクさんです。

料理番組とかで、
おいしそうに料理を食べてたりするじゃないですか。

とれたてのお刺身とか、、、

うまそう・・・・。

でも、いくら料理をレポされたところで、その人の味わいを自分に持ってくることはできないんですよね。
無理ゲーです。
ま、当たり前ですよね。

で、なにが言いたいねん。
というわけなんですけど。

ほら、
こういう話とかを聞いたり、自身でもなんか軽くなってきたとか思ったりりしたときにね、
よく考えがちなのが、
自分の身近な人も救ってあげたい。
みたいな思いなんですよね。

身近な人が、現実に打ちのめされて落ち込んでたりする姿を見たりしたらね、
手を差し伸べたくなっちゃったりしてね。

そういう事もあると思うんですけどね。

これも人が食べてる味わいを奪うことが出来ないのと同様に、
誰かが誰かを悟らせるなんてこともあり得ないのと同じでね。

結局、その救いたい思いも個人の執着だったりするんですよね。

その人はその人に必要な味わいを完璧に味わってるわけでして、
それを横から奪う事ってできないんです。

正誤は別にして、自分なりのヒントを指し示してみることはできるけど
それをどう受け取るのかは、完全にその人自身なんですよね。

受け取る、受け取らないのどちらも、間違いではなくその人にとって完全に正解なんです。

お坊さんなんかでも、
衆生を救うために悟りを説いている。

とかね。
言ってる人もいたりしますけど、

悟りの説明を受け取るという事自体がもう違うことになってしまったりもしますのでね。

誰かを救う。みたいな思いが出てきたのだとしたら、
それって、誰が救うのん?
自分だとしたら、その自分って誰なん?

って観察してみたら、そんな気はなかったけどその奥にある小さな自分と
小さな傲慢が出てくるかもしれません。

道元さんが言ったように、
月を指し示すことはできるが、
月を見るのはその人自身なんですよね。

これって、別に見捨てなさいという事じゃないんですよ。
なんとか手を差し伸べたい。みたいなね。
そういう衝動があったとしたらその衝動にお任せすればいいんです。
何かしらのヒントになればそれで良いし、そうじゃなくても別にいいし。
みたいな感じでね。
理由なんていらないわけなんです。


またこれって、逆も言えると思うんですけど、
自身が味わっている味わいを、先生やグルに何とかしてもらうことも出来ないわけですね。

その味わいが今、起こっているわけです。

甘けりゃいいけど、苦いのはごめんだー!
と言ったところで、もう味わいは起こっているんですよね。

そして、そこに実際に在るのはその味わいであり、
それを感じている自分という考えだったり、
甘いは良くて、苦いはダメという考えだったりが、
概念として表れてたりするわけなんですね。

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