Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

終わりも無いし始まっても無いんやで

f:id:takuteto:20160616142220j:plain

▼ポチッと応援おねがいします!

おはようございます。タクさんです。
デキモノのことを、おできっていうのってなんかかわいいですね。

と、いうわけで、今日は探究の終りについて書いてみたいと思います。

この辺の誤解ってあると思うんですよね。

■■■

一瞥体験がただの体験だという事は分かった。
じゃあ、大悟したら探究の終りが来るんだな!
それが探究の終りなんだな!

そうなると自我が消えて、
もう、悩みや不安に振り回されることもなくなり、
落ち着きのある人。
いわゆる悟ったような人になる。

みたいなね。

もしかしたら、そう思ってる人もいると思うんですよね。
僕もそう思ってましたし。

でもね。

なんていいますかね。

そういう一連のイメージが違うんですよね。

到達するもんじゃない。
ってことは、もう何回も聞いたかと思いますが、
ほんとに到達するもんじゃないんです。

中心点がないんです。

なくなるのではなくて、最初から無いということに気づくんです。

この中心点が自分という概念だったんですね。

あとは、何も変わりません。

普通に今まで通り起こることは起こります。

ですが、あるのは今だけ、これだけなんです。

自分がいて、時間があってっていうのは、
ただのイメージでしかないんですよね。

このイメージだけが世界だと思ってただけなんです。

嫌なこと、不安なこともこの時間という概念の中だけで起こってるように見えています。

そのウソさがむき出しになってくるんです。

これらも、実は連続性なんてなくて、
最初っから、だれも探究なんてして無くて、
ホント、この瞬間だけがあるんですよね。

悟りも一瞥も大悟も、無いんです。

あるのは今の「これ」だけなんです。

自分がいるみたいな見かけはこれからも変わらず起こります。

好き嫌いも今まで通り起こります。

思考は思考として、反応は反応として
普通に起こります。

でも、そこに何かしらの中心点はありません。
あなたに起こるのではなく、ただ起こるんです。

水は高いところから低いところに流れていきます。
反応は反応として起こります。
心臓は心臓として鼓動します。
思考は思考として探索を続けます。

これらすべての起こることは、
名もなく、理由もなく、ただ起こる。

時間がないというのは、何かが止まっているという事ではありません。

時間という概念自体が、何かを止めようとたり、連続性を作ろうとしている行為なんです。

この瞬間しかないというのも、時間の概念がある以上は何かが止まっているように感じるかもしれません。
これも時間という概念の中だけの解釈です。

在るのは固定化された何かではありません。
在るはフロー(流れ)なんです。

瞬間に在るのはフロー(流れ)だけで、
存在とはフロー(流れ)そのものなんです。

それでいて、何にも起こっていません。

これらが矛盾なく在るんです。

矛盾は言葉を中心に考えるとあってはいけないことと捉えられたりしますが、
それは言葉そのものに分離という概念という前提があるから起こることなんです。

起こっていて起こっていません。

ここにおかしなところは、実はないんですよね。

▼よろしければ、1日1回ポチッと応援おねがいします!
他にも面白いブログがいっぱいですよ!

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ