未知こそが「それ」であり、
未知であるがゆえに、制限なく全くの自由として在るわけです。
何かを分かりたいという思いが未知の中で起こり、
その思いの中に同一化する時だけ、
そこに分離と制限が在るように見えるんです。
記憶によって過去を思い、
未来を夢想したりするのも、
それが起こっている時だけ、時間があるように見かけの中だけで見えているだけであり、
あらゆる世界もその未知の中で、見かけで現れているわけです。
どのように現れているように見えてようが、
それは、未知の中で在るように見えているだけであり、
それらは、現れては消えていきます。
ただし、未知の「それ」は、消えることはありえず、
存在として在ります。
何かを捉えようとする衝動の中でだけ、
時間があり、
生死があり、
国境があり、
判断があり、
自分があるように見えています。
この衝動が分離の衝動であり、
ある種のエネルギーではありますが
実体のあるものではありません。
エネルギーであるがゆえに、
ただ起こっては、消えていきます。
未知の中で留まるのに、退屈しているエネルギーなんです。
だから、何かを知り掴み取ろうとしています。
未知の中で何かを掴み取ることは不可能なので、
その衝動の終着点はありません。
なので、延々と掴み取ろうと繰り返すことになるんです。
どこかに「悟りの知恵」のようなものがあるというわけではありません。
どこを探しても、
悟りも、
知恵も、
どこにもありません。
無知とは、知恵を知らない者なのではなく、
未知を知らない者
だということなんです。
なので、
わっかんなーい。の中でリラックスすること。
それが未知である「それ」に、
何かをわかろうと起こる衝動の前に、
留まるということなんです。