Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

解放とは「何にも無さ」、無知の中にある

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おはよーございます。
タクさんです。

よく、「悟り」とは山の頂上にあって、
道はいろいろとあるけれど、
どの道を通っても最後には頂上にたどり着く。

といった感じの例え話があったりするんですけどね。

でもって、実はスタート地点がすでに「それ」だ。
みたいな例えもあるわけです。

山の頂上へ登っていく例え話はマインドの目線から見た例えですね。

んでもって、スタート地点がすでにそれだというのは、「悟り」の目線から表現された例えです。

さて、
悟り目線の話はちょっと置いておいて、
今日はちょっとマインド目線の例え話をして見たいと思います。

このマインド目線の例えばなしで言うところの山に登っていくという例えなんですけどね。

僕のニュアンスでは、登るのではなく、大きな崖を地の底にむかって下っていく。
そんなニュアンスの方が近いんじゃないかなー。
って思ったりするんですよ。

どうしても人って上を目指すというか、目指したがるじゃないですか。
なので、山の上へと登っていく。その頂上には大いなる知恵がある。

そこから、すべてが見渡せる。

みたいなね。
その方がしっくりくると思うんですけどね。

でもちょっと逆とちゃうんか?
って思うんですよね。

どんどん、地の底に向かっていく。
下に降りれば降りるほど、
見える景色は少なくなっていきます。
見える景色もどんどん少なくなり、
どんどん暗くなっていき、
足元もおぼつかなくなってきます。
頼りになる手掛かりもどんどん少なくなっていき、

地の底に近づけば近づくほど、
先は見えなくなってくるんです。

そんな道すがら、
たまに、地の底がちょこっと見えてしまう体験があったりして、
一瞥体験みたいなね。

地の底の本気の何にもなさを知ることにより、
うーわ!なんもないんやーって、
今までの概念の荷物を横に置くわけです。
置いた時の軽さを感じて、
なんだかすんごく軽くなった気がしたのもつかの間。

まだそこは、地の底ではなく、道の途中だったりして、
その時に感じた概念という荷物を置いた軽さを求めて、
この軽さはどこにあるんだろう?
と荷物を背負いながら悩んでみたりしてね。

上に広がる光になんとなく答えがあるような気がして、
光を求めて、また上に戻ろうとしてみたりしてみたりしてね。

上に上がれば、波動が上がるような気がしたり、
見える景色が広がるような気がして、
そうやってまた概念という荷物を増やしていったりするわけですが、
その方向は実は逆だったりするんですよね。

で、あ、それやと違うことに成ると気づいて
また、地の底に向かって進んでいく。

どんどん暗くなる坂道を下るのには、
荷物(概念)はとても邪魔になり、
一つ捨てては、もう一つ捨てて、

最後には荷物(概念)も全部捨てちゃって、
目の前が全く見えない真っ暗闇になってきて、

そして、トンっと足が地の底に着いた時、
目を覚ますんです。

目を開けると、そこには、完全な地平線だけがあり、
最初っからそこに座っていたことを思い出します。

完全な地平線に座り、
山に登ったり、地の底に降りたりしてた
夢を見てたことに気づくんです。

そこには延々と広がる地平線だけが見えています。

上も下も、
登るも降りるも、
そんなことができるはずもなく、
そんな高低差は微塵もなかったんです。


■■■


どうでしょう?

我ながらなんとわかりにくい例え話やねんと思ったりするわけですが、

ま、でも、
なんか、降りれば降りるほど、
暗くなり、手掛かりがどんどんなくなって、こわくなってくる感じが
「それ」へと向かう感じのニュアンスに近いような気がするんですよね。

山を登るにつれて景色が広がるようなニュアンスよりも
地の底に向かう感じの方が、あってるように思います。

ま、
あくまでも例えばなしですけどね。

地の底は真っ暗で、そこで何かを得ることも、
はるかな景色を見渡せるわけもなく、

本当に何にもないと知った時に、目を覚ますんですよね。

最初っからなーんもなかったんやんか。

ってね。

悟りなんてものも無かったわけです。

おお!これが悟りか!
なんて思ったとしたら、それは勘違いでしかありません。

んなもんありません。

なーんもないんです。
最初っから。

そのなーんもなさが解放です。

なので、何かを知る必要もなく、何かを手に入れる必要もなく、
何かをする必要も無かったんです。
なーんもない中で
事は意味なく起こり、そこに無意味な意味付けをしてジタバタしてただけだったんですよね。

なーんもないから、なーんの意味もない。
意味もないから、何かを知る必要もない。

解放とは、
何かを知らなきゃならない。
わからなきゃならないという夢からの目覚めであり、
何かを知らなきゃならないといった呪縛からの解放なんです。

こんな事をマインド、自我で受け取ったら
それは虚無主義になってしまいます。

このなーんもない。何の意味も必要もないというのは、
実際に動かずに何にもしないという意味とは全然違います。
マインド、自我ちゃんで受け取ったら、全然違う事になってしまうんですよね。

マインド、自我は何でも受け取り解釈したがります。
受け取り、解釈し、方向付けをする働きがマインド、自我ちゃんの事なので、
自我ちゃんには、なーんもないは決してわからない事なんですよね。

だからなーんもないはマインドにとってはとても怖く感じますし、
受け入れたらヤバイと感じますし、
少しでも手掛かりを探そうと光を求めます。

その衝動自体が、マインド、自我ちゃんの働きなので、
ここでは、ほっておいて、
構わず地の底に向かってみたらば、その地の底に目を覚ますきっかけがあるわけですね。

そして、目覚めてみると、
最初っから地の底も山の上もなく、すべては幻想でしか無かったわけです。

底に向かって落ち続けて、地の底にストンと着地したとき、
落ちて、着地して、落ち着く。

なーんもないに落ち着く。
というわけですね。

お!ちょっとだけうまい事言えましたので、今日はこの辺にしておきます。
それでは、また明日―♪

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