Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

原因と結果という信仰

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僕らって、基本的に、自分の周りの環境をよりよくしたいって思うじゃないですか。
たとえば、良いところに住みたいし、
いつでもおいしいもの食べたいし、
なんか自由でいたいし、
よきパートナー、家族に恵まれたいし、
やりがいのある何かに打ち込んでいたいし、

ま、自分はホントのところ別にそれほどでもないけど
自分の家族や自分のパートナー、自分の子供には良い環境の中にいてもらいたい。
って人の方が多いと思います。

ま、いずれにせよ、より良い環境を求めてたりするんですよね。

なんで、そのような環境を求めているのか?
というと、自分もしくは自分の大切な人が良い環境にあると、
安心できる。
平安を得られる。

そんな望みがその奥にあるんじゃないかなーって思います。

ま、一例ですけどね。

それで、そのより良い環境を手に入れようとするわけで、
それが、より良い学校だとか、会社だとか、仕事だとか収入だとか、
はたまた、外見だとか、地位だとか、お金だとか、パートナーだとか、
そういったことを望むことになっていったりすると思うんですけど、

ま、そういうのって、当然のことながら上手くいかないじゃないですか。

で、いろいろつまづくんですよね。
当然のことながらね。

んで、環境(外側)をダイレクトに変えるには無理があると思った人は、
自分の内面開発に移行するわけです。

マインドを開発していくことによって環境を変えるという手段です。

これらは、ビジネス分野とか成功哲学とか、美容分野でも健康分野でも
いろんな方法があると思いますが、
そのひとつにスピリチュアルや宗教もあるんじゃないかなと思います。


ま、その辺の系統分類はどうでもいいんですけど、
まあともかく、自分を変えることによって環境を変える。
そして、環境をかえた暁には、望んでいた平安が手に入る。

みたいなね、
そんな信仰みたいなものがあるんじゃないかな?って思います。

さて、
この信仰がね、僕が書いてるようなことを理解?する上で、
ちょっとやっかいなことになっていると言いますか、
つまづく原因になっていたりすることって多いんじゃないかなーって思うんです。

ま、僕もこれは理解することじゃないって言ってますが、
それは、この信仰にのっとったやり方は通用しないという意味なんですね。

この信仰の大元には「原因と結果の法則への信仰」みたいなものが
デーンとあるように思います。

原因があって、結果がある。
という考え方ですね。

これがもう染み込んじゃってるので、信仰していることにすら気づかずにいる。
当たり前じゃないのに、当たり前として身についちゃってる。
と言ったことがあると思うんです。

でね、この信仰があると、
「私はいません」と聞くと、
じゃあ、その状態になるのにはどうしたら良いの?
と思いますし、
「どうにかするといった行為者はいません」
と返されると、
もう手も足もでないというか、なんとも気持ちの悪い感覚になるんです。

前にも進めず、
後にも引けず、、、
何がなんやら、、、、

みたいな感じになっちゃうことがあると思うんですよね。

僕も
そのまんまにしておく。
わからなーい。に落ち着く。

みたいなこと書いてますけど、
これって、この「原因と結果」信仰からまず抜けてみるという試みなんです。

瞑想をして悟りを得るってのも、
修行をして悟りを得るってのも、
自分を癒して癒し切ったあとに「それ」がおとずれるってのも、
反応に気づき、反応しなくなる練習をしましょうってのも、

これらあらゆるメソッドは「それ」とは全く関係ない。
つまり「それ」への的を外しているというわけですが、
それは、なぜかと言うと、
結局どれも「原因と結果」信仰があっての話しだからなわけです。

この「原因と結果」信仰自体が的外れなので、そこを土台としてしまうと
もうぜーんぶ的外れになってしまう、というわけですね。

なので、まず、この自分の中に「原因と結果」信仰があることを発見してみたら良いと思うんです。

この信仰があることに気づくことで、この信仰は力を失っていきます。

コツは気づくだけだという事です。

この信仰を捨て去ろうとか、
自分の中から消し去ろうといったアイデアが出てくるかもしれませんが、
このアイデアもその「原因と結果」信仰から出てきているアイデアです。

なぜなら、これを消したら、この信仰がなくなって自由になる。

みたいなアイデアだからです。

この信仰があらゆるメソッドやあやゆる話から本質を奪い取っています。

たとえば、
お釈迦さんの話を系統だった宗教に仕立て上げたり、
手放すメソッドを手に入れようとしたり、
非二元(二元ではない)というのを、非二元という系統と判断してしまったりです。

だから気づくだけ、気づけなくても、そういった進行が自分の中にあるのかも?
と感じてみるだけでOKです。

すると、原因と結果という信仰は弱まっていき
この原因と結果という信仰は、分離という意識が作っていた幻想に過ぎなかったと気づくでしょう。
そして、この分離の意識が、「ワタシ」なんです。

すると、「ワタシはいない」「行為者はいません」
ってのは、ただ単なる当たり前の「それ」を表現しているに過ぎないということに気づくかもしれません。
なーんもしなくてもいいのに、何を吸収し理解しようとしていたのか・・・。
とバカバカしくも愛らしく感じるかもしれません。

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