Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

人は考える葦ではない

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あー、今日のお昼は何食べようかなー。
ってね、考えたりするじゃないですか。

だからね、なんとなーく自分で考えてるって思うじゃないですか?

これね、トリックみたいなもんなんです。

よくできたトリックですけど、ホント考えてる自分なんていてないんですよね。

考えが起こった後に、はいこれは自分が考えた〜!みたいなレッテルを後付けしておるんですよ。

イチローはわしが育てた!
ってゆーてるようなもんですよ。
ちょっと違うか。

でね、もっと言うとね、
今日のお昼は何食べよかなー。って考える。

って言うね、

この「考える」の部分。

これも、後付けのレッテルなんですよね。

ホントは考えとか思考ってのもないんですよ。

厳密に言うと、
今日のお昼は何食べよかなー。

って言うね、独り言みたいなもんが起こっただけなんです。

そこに、わしが考えた!ってね。
後付けでゆーてるだけなんです。

「人は考える葦である」
ってえらい哲学者が言ったらしいですが、
考えてません。

考えたという概念を後付け、レッテル付けしてるだけなんですよね。

独り言が勝手に起こっておるだけなんです。

これも自分という「ワタシ」がいると思っているから、
このワタシが考える能力を持っていて、
そして、何かについて考えることができると勘違いしているんですよね。

ホントは反応みたいなものが起こってるだけなんです。

現に、じゃあ、5分後には何を考えているだろう?
1時間後には、このことで不安になってて、2時間後は別のことに思考を巡らせていて、
今日の夜は、このことにイラっとしたりするだろう。

なんてね、この先自分が、何を考えるのか?
ってね、そんなんわからないじゃないですか。

この後、自分は何を考えるのか?なんてわからんのですよ。

後付けで、自分がそれをやってると勘違いしているだけというかね。

今だって、勝手に世界は展開してるじゃないですか。
そして、勝手に独り言みたいな思いが湧いて、そのことについて
考えてるっていうレッテルを貼って、それを考えてるのは自分だというレッテルも付け加えて、それで、いろいろとやってる気になっていますが、

それでも、勝手に世界は展開してるんです。

この世界に後付けで勝手に意味付けしてるだけなんですよね。

それで、その意味付けに対して、快適か不快かといった反応が起こり、
不快なものは、あかんやつやでー!と言って抑え込もうとしてるわけです。

そして、その抑え込もうとする行為がなんかつらく感じたり、重苦しく感じたりして、

ってね、この一連の流れも、もう勝手に起こってるんですよ。

笑えるでしょ?

なので、もう何もすることってないんですよね。

なすがままなんですよ。

僕らが何をしようがしまいが、なすがままなんです。

僕らは、なすがままの上で、何かをした気になってるだけで、ホントは何にもしてないんですよ。

なので、悟りとか言ってもね、それで何かが変わるなんてことはないんです。

ただ、ことは今、なすがままに起こっていて、
その上で、自分が何かをしている気になっているだけ。
もしくは、
今まで、何かをしている気になっていた自分ってなかったんやーって気づいているだけ。

それだけの話なんです。

気づいていようが、なかろうが、なすがままは何の影響も受けずに、
ただ、なすがままです。

あるのは、ほんま「それ」だけ、それがなすがままの「それ」なんです。

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