月をさす指、その指を切り落とせ。
これはお釈迦さんが弟子に言った言葉だそうです。
月をさす指とは、
(月)=真実を示す
(指)=言葉のことです。
指を切り落とせというのは、
示された(指)言葉の方を見ずに、
真実(月)の方を見なさい。
ということです。
つまり、
無駄な言葉あそび、追及みたいなもんは捨ててしもて、真実を見なさいな。
みたいな意味ですね。
僕もね、こんなブログでわかったようなことを書いてたりするんですけどね。
それって、僕が何かを分かってて、そのことを教えるために書いてる。
ってわけじゃないんですよね。
ぶっちゃけ、なんもわかってないんです。
わかろうとすること。
何かを分かって理解し、自分のモノにする。っていう、
人が信じているこの流れのウソさに気づいた。
ってことなんです。
そして、この分かって理解したと思っていたこと。
これらはぜーんぶ、物語だって気づいたんですね。
ま、それも、僕が気づいたわけじゃなく、わかろうとしていた自分そのものが、まずいてないってことなんですけどね。
物語が悪いわけじゃありません。それは勝手に起きてます。
その物語にとらわれすぎていたんです。
モノにできるなにかも、それをする自分というのも、物語であって実体はなく、
ホントにあるのは明らかな真理だけだったんですよね。
明らかな真理って、なんかすごい感じの響きがあるように感じられるかもしれませんが、
なにもすごい事ではなく、ほんと、当たり前で平凡なことだったんです。
そして当たり前すぎて、平凡すぎるので、言葉では表現できないんですよね。
なぜなら、どんな言葉にしろ、それを言葉にした時点で、ほんのちょっとだけ平凡さが失われるからなんです。
それでいながら、言葉では表現でき無い何かを、なんとかして言葉で表現しているわけなので、
その言葉自体を理解しようすると、ちょっと違う事になるんですよね。
わからん!って思ったならそのわからんが正解なんです。
あらゆるすべてがダイレクトに在ります。
それが全てです。
明らかすぎる「それ」です。
このダイレクトさに意味はありません。
全ての事柄に意味はありません。すべてに意味は無いんです。
こう聞くと、なんだか物足りなく感じるかもしれません。
その物足りなさが意味をほしがり、意味づけをしようとします。
そしてその意味づけをなにかの原動力に、
なにかの指針にしたいと自我ちゃんが思っているのです。
意味に依存しているんです。
思考や感情が、全てである「それ」と分割されているわけじゃなく、
思考や感情を含めて、全てが在ります。
思考や感情に何かしらのパワーがあるわけではありません。
これらは、ただ起こっているだけです。
今じゃないどこかがあるわけじゃなく、今があるわけでもありません。
ここじゃないどこかがあるわけじゃなく、ここがあるわけでもありません。
「それ」とは、特別な状態というわけじゃありません。
どんな時でも、どんな状態でも、「それ」から離れることはありません。
何かをすることでそこから離れているように感じているとすれば
ただ、単純に「それ」のなかで「それ」から離れていると信じているだけです。
大きな感情に巻き込まれたときに「それ」から離れているという事はありません。
ただ、その大きな感情を抑え込もうとすることに注意力を集中していただけです。
その感情をダイレクトに感じている。
このそのままの感じが「それ」です。
感情に力があるわけではなく、
抑え込まなければならないという思い込みがあるだけです。
その思い込みが、感情に力があるように見せているだけなんです。
なにかをやることによって「それ」から離れることはありません。
常に「それ」しかないからです。
「それ」を指し示した言葉を解明しようとすること。
「それ」を指し示した言葉を理解しようとすること。
これらが、無駄な言葉遊びであり、追及です。
月をさす指は、当然のことながら月ではなく指であって、ただ月を指し示しているだけです。
その指を見て、追及して研究してみたところで月を見ることはできません。
月に目を向けるには、自身でそこに目を向けなきゃなりません。
これは、理解が出てくる以前、言葉が出てくる以前のなにかを、
言葉であえて説明しようという試みです。
ですが、言葉は何かを確定させ、固定するという性質を持っているがために、
言葉で「それ」を完全に表現できることはありません。
なので、言葉で表現された「それ」はどこかに誤りが含まれます。
なので、言葉を理解しよう、追及しようといったことは、方向を見失うこととなってしまうんです。
指し示された言葉はヒントにしかなりません。
その言葉の中には答えはないんです。
自身で発見してみるしかないんですね。