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Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

分離と同一化、そして主体と客体について

自我ちゃんのクセ ワンネス体験、覚醒体験、悟り体験

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分離と同一化。

この言葉をよくこのブログでも使ってます。

この「分離」と「同一化」って、そのままみたら、全く逆の意味にみえますよね。

だって、分離ってゆーたら、何かが分かれることを言いますし、
同一化ってゆーたら、別のものが1つに合体する、みたいな意味に感じますしねぇ。

でも、ここで言うところの分離と同一化は全く同じ意味を指し示しているんです。

分離というのは、内と外を分けてしまう行為です。

目に見える光も聞こえる音も、ぜーんぶ自分の中で起こっているのにもかかわらず、
このテレビから聞こえる音は外、そして、心臓の脈打つ音は内。

みたいにね、分けて考えて、世界を構築しているんですね。

これが分離です。

この分離ってのはどうして起こるのかと言うと、
ぜーんぶの中の一部に同一化することによって起こるんです。

どういうことかと言うと、ぜーんぶの中の、ココからココまでが自分で、
それ以外は、自分じゃなーい。

みたいな線引きですね。

そして、ココからココまでの自分という概念に同一化することによって、
それ以外との分離が生まれるんです。

なので、分離と同一化ってのは、同じことを指し示しているんです。

さて、この辺の概念は無意識に構築されちゃっています。

そして、構築された概念上で全てを理解し、行為するわけなので、
その概念のウソさ。
それが、ただの概念であることにすら気づかなかったりするんですよね。

その概念が「ワタシ」という概念なんです。

このワタシというのは、分離の中でしか存在しません。

分離とは別の言葉で言い換えると、主体と客体です。

この主体がワタシで、客体がワタシ以外。という事になるんですが、
この「ワタシ」はワタシ以外が無い事には存在できないんですよね。

普段何気なく、「ワタシ」というものがいるように感じたりしていますが、
この「ワタシ」は、何かしらの客体があるときだけしか現れないんです。

この客体を許したり、手放そうとしたり、
そんなことを、スピ系のワークとか修行とかでよく行われたりします。

でも、主体である「ワタシ」がある限り、客体はなんぼでも作られてしまうんです。

なので、これらのワークをいくら繰り返しても、客体はなくなることはありません。
客体の質が変わってくる可能性はあります。
だから、なんか自分が変わったように感じるかもしれません。
でも、それは輪廻という車輪の輪をくるくると回るようなもので、そこにゴールってないんですよね。

ゴールというものは無くて、スタート地点に「それ」があるわけなんですが、
それって、最初から「それ」しかないということなんです。

この主体と客体の関連性のウソさを加減が見抜かれると、この関連性の力は失われます。

見抜くだれかがいるわけではありません。ただ、見抜かれるんです。
主体と客体の関連性があるように見えているウソさがあっただけなんです。

一瞥体験なんかでは、全部しかないという、この当たり前の大元をちょっと垣間見るみたいな体験なんですが、やっぱり主体は残っているので、
「うおおおお!オレ、なんか体験したっ!」
ってなるんですが、
まだ、ウソさが残ってるんですよね。
それは体験した主体がまだあるからなんです。

この主体と客体のウソさ加減も、一瞥で垣間見てるわけですが、
主体である「ワタシ」がそれを理解しちゃっている。
みたいなやっかいなことになってるんです。

この主体と客体の関連性のウソさって、それはそれは当たり前のことなんですけど、
この関連性が、心の奥底まで身に染みているので、リアルに感じられているんです。
そのウソが明らかになった時、関連性への依存がきえて、「ワタシ」もいなくなるんです。

その時は、そりゃそーやん。ってことになるので、こんなん悟りでも覚醒でもなんでもない。
何を大げさな・・・。
この大げささもウソやん。ってなるんですよね。

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