Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

幻想という逃避

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何にもなくて、全部あります。
全部しかありません。

ね、ややこしいですね。

でも、何にもない、全ては幻想。
こんな言葉を主体である「ワタシ」が受け取ったら、
目の前の「ワタシ」が嫌だと思っている現実は幻想なんだ。
という理解をしてしまうかもしれません。

それやと、ただの逃避になってしまいます。

こういった非二元のメッセージって、一見ね、

あなたは大丈夫ですよ~。
あなたの起こっている現実は幻想なんですよ~。
だからね、起こってないんですよー。

だからねー。大丈夫なんですよー。

とかね。

そんな意味に捉えられたりする誤解が起こりがちなんですよね。

それをそのまま受け取ったら、
今の現実が嫌なんで、早い事、真理というところに逃げ込もうやないか!
って思っちゃうんですよね。

これも「ワタシ」という主体があるから起こる誤解なんです。

このメッセージは、自我である「ワタシ」を安心させるものではないんですよね。

安心があるんだけど、それは「ワタシ」が感じられる安心じゃないんです。
なぜなら、この「ワタシ」の存在が安心から遠ざかる原因だからなんです。

「ワタシ」という概念。それだけがないんです。
っていうか、クセみたいなもの、エネルギーのようなものとして起こっていただけなんです。

「ワタシ」がないから、全部しかないんです。
分離がないからです。

幻想なのはその分離感なんです。
起こっていることそのものが幻想なのではなく、それを「ワタシ」を通して見ているレッテルが幻想なんです。

全部あります。起こっています。
それでいて、何にもないんです。

これは、
全部しかないがゆえに、有るとか無いという判断が無意味になるという事でもあります。

安心を得ようとすることが、安心から遠ざかることとなります。
何かを得ようとすることが、得られない原因となっています。

分かろうとすると、混乱が増し、
なーんにもわからなくていいんやー。と納得できると、混乱がほどけていくんです。

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