Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

私は何かが無いと成り立たない

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おはようございます!
今日もネコの写真探しに余念がないタクさんです。

今日は、「ワタシ」というある種の想念について書いてみたいと思います。

ワタシという想念とは、元々はただの思考による概念だったものが、
繰り返されることにより染みつき、クセのようになったものです。

さて、このワタシという想念は、他の何かがないと実は成り立たないんです。

例えば、

私は考える。
私が感じている。
私は起こっている。
私は悲しい。
私は日本人だ。
私は男だ。
私は女の子よウフフ。

といったように、
私は・・・。
とか
私が・・・。

と、私の後に何かが続かないと、私って成り立たないんですよね。

なので、私という想念がある限りは、その私に続く何かを探し続けることになるんです。
なので、私という想念そのものが、分離のエネルギーなんですよね。

私はどこからきて、どこに行くのか?
私とは何者なのか?

といったような自分探しが好きな人が多いのも、すべてこの、探究のエネルギーなんです。

この、私の後に続く何かはぜーんぶ、何かに名前を付けているレッテルなんですね。

じゃ、試しにこのレッテルを取っ払ってみたらどうなるでしょう?

私は、、、、
わ、、、わたし、、、

、、、

おーあぶねー!

そう!
私は身体だっ!

だって、腰が痛いもん!
うん。私は身体だ!

みたいになったりするでしょうか?

思考や感情って、結構これらがレッテルだというのはわかりやすいんですよ。

で、これをとると、私は次に身体というレッテルに逃げ込んじゃったりします。

この身体の感覚って、ものすごーく近くに感じるじゃないですか?
だから、この身体に私という想念を付け加えちゃったりするんですよね。

で、この身体の感覚も、実はぜーんぶレッテルなんです。

もちろん、痛く感じる感覚や、空腹感や、
座ってるお尻の感覚、叩いたら痛い感覚。
そういうのはあるんですよ。

当たり前ですよね。

名もない感覚として起こっているわけです。
起こっては消えて、起こっては消えてと流動しているんですね。

私という想念がそれらに名前を付けて固定化しているんです。

それらのレッテルも取り外したとしたら、、、

私は、、、、ない。

ありゃ?なーんもない。

最初っからなーんもなかった。

てなもんです。

私も想念なら、その後の言葉のただのレッテルであって、
どこにも実在する何かなんてないんです。

だから、ワタシ探し、自分探しをしたところで、どっこにもいないんです。

もちろんね、パーソナリティっみたいな性質とかはあるんですよ。
その性質はただ性質としてあるだけで、
それを持つ誰か?はいないんです。

なので、あらゆる思考や感覚の方を消そう消そうとするんじゃないんです。
これらにくっついているレッテルや私という想念に気づいてみるといいと思いますよ。

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