よく、
「何もしなきゃいいんです」
とか、
「考えるのをやめればいいんです。」
とか、
「考えるな、感じるんだ」
とか言われますよね。
僕はその言葉の通りだと思うんですけど、
でも、それだけだとちょっと説明不足というか、不親切かもしれないなー。
と思ったりもします。
何もしないとか、考えるのをやめるとか、
そういったことをしようとした時に、大きなジレンマが発生するんです。
それは、
何もしないをやろうとする。
考えないをやろうとする。
というジレンマです。
結局、何もしないをしてるじゃないか。
ってことなんですよね。
そして、その何もしないをやろうとするのは、何かを得たいと言う思いがあるからです。
この時点で、もう、何もかもが有り有りになってしまっているんです。
考えないために瞑想をしたところで、
そこに「何も考えないため!」
と言う、明確な目標が出来上がってしまってるんですよね。
そしてこれがもう、自我ちゃんの特性である以上、
これをどうにかしようとすることはできないんです。
本当は、自我ちゃんと言う何かが存在しているわけではありません。
ただ、そういった考えがあるだけなんですけど、
そこに自我ちゃんがあるという大きな信念を持っているんです。
この信念が分離のエネルギーです。
この分離のエネルギーが自我ちゃんを生み、
「何もしないにはどうすればいいのか?」
という矛盾ありまくりな考えを生み出しているんです。
これは禅問答のようなものですね。
「何もしないをやってみなさい!」
みたいなね。
じゃ、どうすればいいのか?
ですが、どうすることもできませんし、
そもそも、この問い自体はただの音です。
何かをする。とか何もしないって言うのもただの音じゃないですかー?
この音に、何の物語を付け加えようとするんです?
どの物語も素晴らしいかもしれませんが、それは物語ですよね。
うふふのふ。
と言うのが、この問答の答えとなります。