Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

当たり前のことながら、全部が今ここにありのままにある

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全部が今ここにありのままにあります。

それがどれほど当たり前のことなのか、ちょっと思考実験をしてみたいと思います。

さて、あなたの目の前には、当然のことながら何かしらの音やら景色が広がっていますよね?
今なら、パソコンの画面とかスマホの画面が目の前にあるんだと思います。

いろんな音や景色やニオイだってあるかもしれませんが、ここであなただけがいないと仮定してみてください。

あなただけがいないとしたら、
その景色とか、音だけが残りますよね?

ただ、なんてことはなく、ただたんに、景色と音だけが普通にあるだけとなります。
あなたがいないわけですから、なーんの判断もされず、
まるで放置されたゲームのように、ただそこに景色とか音だけがただあるだけです。

これって、別に驚くべきことでもなく、ふーん。って感じですよね?

そして、この景色とか音とかあらゆるそこにあるモノ。

それ以外の何かがあるわけじゃないですよね?

これも当たり前ですよね?

うん。

そして、それって、当たり前のことながら、ありのままですよね。
それ以外の何かがないわけですから、「ありのまま」なわけです。

それ以外の何かがないので、全部。
そして、その全部が今、ここに、ありのままある。

ホント、そのまんまですよね。

それ以外に何かがあるんでしょうか?

■■■

そして、そのありのままの当たり前の中で、
僕らがそのありのままを身体だと見なしている間だけ、身体があります。
また、心があると見なしている時だけそこに心があります。
自我があると見なしている時だけ自我があります。

これらって、有るというよりは、ただ、「見なしている」んですよね。

あるとみなしている。だからあるように見えている。
だから概念なんですね。

概念には実体はないんです。
それも、そりゃそうですよね。

なので、このありのままの話しって、
悟り系でもなく、
スピリチュアルでもなく、
スピリチュアル反対って話でもなく、
ライフハック的なものでもなく、
人生についてでもなく、
生き方の話しでもないんですよね。
だって、それらって全部概念の話しですからね。
人の数だけ解釈があり、
人によって概念の好き嫌いがあり、
人によって正しい、誤りがあるわけじゃないですか。

これはこれで、ホントすごくて、何もない中でごっつ起こっていて、
面白すぎるからこそみんな同一化して、のめりこんでいるってわけなんですが、

ありのままってのは、
そういった概念の話しではなく、
例外なく誰からも離れることのない「それ」についてなんです。

この当たり前を見過ごすことで、概念上で幸せを求めてしまうことになり、
実体のない概念上ではそれを維持することは不可能なので、
そこで「苦」が生じてしまうんです。

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