Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

目の前の現実に目を背ける時だけ幻想が現れる

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僕らは、目の前の現実に目を背けている時だけ、「それ」を見失います。

目の前の現実そのものが「それ」なんです。
なので、それから目を背けると見失うのはまあ当たり前っちゃ当たり前の話ですよね。

けど、どうしても目をそむけてしまうんですよね。

「こんなはずじゃない」
「もっとより良くなるはずだ」
「こんなつまんない現実じゃなく、もっと悟りの世界、愛と至福の世界があるはずだ」

とかね。

そう思って目をそらしているとき、「それ」を見失っているんですね。

なぜ、
「こんなはずじゃない」みたいな思考が出てくるのか?といいますと、
色々な原因が考えられたりしますが、ぜーんぶの元をたどると、
分離感があるからなんです。

この分離感がいろんな問題となる原因を作り出しておるというわけですね。

分離の感覚が無ければ、目の前の現実そのものしかありません。
自分は目の前の現実そのもの。
あの人も目の前の現実そのもの。
起こっていることも目の前の現実そのもの。
そのものしかないし、それが全部ですし、全部しかないわけです。

ここまでは、まだ良いじゃないですか。
ここから妙なパラドックスが始まります。

分離感が原因だという事は、この原因を取り除けばいいわけじゃん!
って思うじゃないですか?

これがパラドックスの入り口になるんです。

あらゆるスピの教えとかワークでは、この分離感を消そうとする試みが多く見受けられます。

エロイ先生も、分離の中じゃなく、今ここを生きるのです。と言ったりします。
すると、なおさら分離を追い出そうとしちゃうんですよね。

ややこしいのは、追い出そうとしているのも分離なんですねー。
そのことに気づかずにいると、延々と「追い出そう!」「追い出そう!」とするワークに夢中になり、終わりのないループに迷い込んでしまいます。

まだ分離が残っているという思いに振り回され、その残っている分離はなくなることがありません。

この辺りが、あらゆるワークや修行、瞑想の後に「それ」があるんじゃないんだよーん。って言われているゆえんですね。

■■■

さて、ここまで、「分離というものがある」という前提で書いてきました。

でもね、ホントのところは「分離」というものも無いんですよ。

これもただ起こっているだけと言いますかね。
無いんです。

あるように見えているだけって感じなんですよね。

ほら、子供の時の遊びと同じです。
男の子なら、怪獣の人形とかで遊ぶじゃないですか?
女の子なら、お人形さん遊びとか。

ぐわーっ。どしゅーんっ。ばしゅーんって。

遊びの最中は、怪獣がいることになってるじゃないですか。
お人形さんはいることになってるじゃないですか。

それと似た感じで、在ることにしているってことなんです。分離も。
なので、オママゴトのようなものなんです。

だけど、在ることにしている誰かがいるわけでもなく、ただ、何にもない中でその分離が表れているだけなんです。

分離感とはあなたの目の前の現実を知ってるものと認識することです。
でも、それは、そういう事にしているだけのことが、ただ起こっているんですよね。

なので、本当はわかってることなど一つもないんです
わっからなーい。という、それこそが真実です。

分離感の中でうまれる知ってることが、未来を予測し何かをコントロールしようとするんです。
そして、知らないことを知ろうとするんです。
これがオママゴトです。

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