Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あまりに明白な「それ」

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目の前にいる山本さん。
この、山本さんという言葉と、実際にそこにいる山本さん。
これは似ても似つかぬ全くの別物です。

目の前にある桜の木。
この、桜の木という言葉と、実際に目の前にある木とは、何の関連性もない別物です。

■■■

何を言っているんだ冒頭から。
と思われるかもしれませんね。

言葉からくる音と字面。
それと実際のものって、当たり前のことながら全くの別物じゃないですか?

でも人はその言葉にとらわれて、その言葉からくるイマジネーションと実際のものを混同しちゃったりするんですよね。

いわゆる桜の木という言葉からは、みたことのある桜のイメージがイマジネーションとしてあらわれますが、ホントに目の前にあるその桜の木そのものとは違うじゃないですか?

言葉は便宜上、何かを指し示すレッテルとしてのツールとして使われますが、実際の現実とは全く違うものなんですよね。
でも、言葉の方に意識を取られると、実際の現実よりも言葉により産み出されるイマジネーションの方を重要視してしまい、いつしか、言葉から生まれるイマジネーションが現実だと誤認されてしまったりするんです。

悟りだとか、「それ」というのは、イマジネーションを介さない目の前の現実そのものです。
どこに行こうが何をしようが、現実の「それ」は今ここに在るんです。

頭の中にあるその言葉をそのまんまにしておく、
イマジネーションを付け加えることなく、ただ、そのまんまの言葉としてそのまんまにしておく。

あらゆるレッテル、言葉がそのまんまにされることにより、脱落していきます。
その脱落していくのをそのまんまにしておくんです。

すると、そのまんまだけが残ります。

ん?これがそのまんまなのか?
胸の方がなんとなく解放されてるような気がする?これは良い兆候なのか?
そのまんまにしておくのは何とも退屈な感じがする。
そのまんまだとちょっと怖い気がする。なにか心配になってくる。

こういった思考があるとすれば、それらの思考をさらに発展させることもなく、封じ込めることもなくそのまんまにしておくと、それらも脱落していきます。

この脱落もまた、そのまんまにしておくと、そこに何が残るでしょうか?

この残る何かを観察してやろうという思いが出てくるかもしれません。
残る何かをサーチする何かのエネルギーがあるかもしれません。
そんなエネルギーも掴むことなく落ちていくのにお任せしておくと、
あまりに明白な目の前の現実だけが残ります。

流動的で固定されることもなく、分かれることもないので、つかみどころもない、ただそれ。
常に新しことがただ明白に起こっています。
あまりに明白すぎて、見過ごされてきたのが「それ」です。

自我にとってはあまりに退屈でつまらないものが「それ」なんです。

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