Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

これしかないんじゃなくて、全部あるんです。

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僕が高校の頃の良く遊んでた友達の中で結構お金持ちの家の子がいたんですよ。
彼は高校生のクセに自分専用の部屋じゃなくて、自分専用の離れの家に住んでたんですよね。
高校生が親の目の届かない離れの家に住んでるなんてもう格好のたまり場じゃないですか。
で、僕もよく彼の家にたむろっていたわけなんですけど、
ある日の夜更けにですね。
なんか彼の家でゲームとかしてて、ちょっと腹が減ったねぇ。。。みたいな話になったんです。
すると彼が、なんか家のあまりもんもってくるわー。とか言って持ってきてくれたんですよ。

「なんかこんなもんしかないわー。」って、、、、

カップ麺とかいくらの瓶詰とかハムとかご飯とか、あとコーラとか午後の紅茶とか、、、、

いやいやいや、、、これしかないって、、、
全部あるやんけ!
スゲーな!!!お前!!!!

って興奮したことを思い出しました。

■■■

さて、おはようございます。タクさんです。

「これしかない」
って言葉が非二元とかで言われてますよねぇ。

そんでもって、
「あらゆる自我を手放していきましょう。」
とかも言われてますよね。

こういうことを聞くと、
ちょっと寂しく思われる方もいるようです。

なーんだ。無いんだ。
ってね。

でもここでいわれている
「これしかない」の「これ」って、
「全部」という事なんです。

全部あるんです。そして、全部しかないんです。

それでね、
全部あるってのは、何にも無いというのと同じことなんです。


ちょっと、お前、、、何を言ってるんだ。。。
って思いますよねぇ。

どういうことかと言いますとね。

これしかない。ってことはですね、分離がないってことなんです。

そして、分離がないという事は、もう全部なんですよ。

最初っから分離なんてなかったわけなんですよね。

なので、もう全部なんです。

するとですね、分離の中で個別化されたモノというのは、もう無いんですよ。
だって、全部だから。

なので、個別化された何かというものは、もうホントに何にも無いんですよ。

これって、めっちゃ自由なんです。
っていうか、最初っから自由なんです。

なのに、何かを個別化して認識しようとすることによって、
透明の檻を作ってたんです。

この檻が自由を奪っていたんです。

でもね、そんな檻なんてないんですよ。
ぜーんぶ概念上の実体のない考えでしかなかったわけですよ。

なのでもう、何にもないんです。全部しかないんです。
でも全部って言っちゃうと、あれもこれもそれも、、、ってなんか個別化されたものの寄せ集めのようにも聞こえるじゃないですか?
そういう事じゃなくて、全部は分割されてないんですよ。

だから、これしかないんです。

また、これって、全部だから完全で完璧なんです。
そして、その中で分離しているのが「自分」という意識なので、
この自分という意識では理解しようがないんです。

だって、理解するってこと自体が、取捨選択をして固定化することだからです。

この取捨選択と固定化という作業が分離を生んでいるからです。

非二元で表現される「これしかない」は、そういう事なんですが、この言葉はただの描写ですので、それを分離された自我の中で、何かを理解する足がかりとするという事をすると、全く意味の違った捉え方になってしまうんです。

手放すというのは、この分離として掴んでいる誤解を解いていくという事で、何かを捨てるのではなく、全部に近づいていくことなんです。

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