悟りなんてものは存在しません。
そんなもんありません。
ですが、あえてそういう表現は使われています。
それって、ただ、無いモノをあえて説明のために使われているっていう、ただそれだけのことなんですよね。
ですが、一瞥体験とか、悟りの体験とかをしたときに、そういった体験をこじらせてしまう場合が結構あります。
禅とかでは、それを「魔境」と言ったりするそうです。
魔境なんて、言葉からして、こわいですねー、大げさな表現ですねー。
ま、僕はあまりこういった「魔境」みたいな表現はいらん概念を付け加えてしまうといった負の側面があると思いますので、ここでは「こじらせ」と表現してみようかと思います。
これって単に体験をこじらせておるだけなんです。
ですが、たまに手に負えないほどこじらせちゃったりする場合もあるわけで、今日はこの「こじらせ」について書いてみよっかなーと思います。
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体験のこじらせっていろんなものがあるんですが、やっかいなのは体験があまりにも強烈すぎた場合です。
とくに、神と会ったとか光に包まれたとか、そういった体験があった場合。
よく禅では仏にあったらその仏を殺せ!
みたいに言ったりするそうですが、それもこの「こじらせ」に対する警告みたいなものですね。
以前、道元さんの映画をみたんですが、その映画の道元さんが悟りの体験を得たときも師匠に、
「至ったな。その悟りをすぐ捨て去りなさい」
みたいなことを言っておりました。
うろ覚えですがねっ!
ま、体験ってのは、物語ですので、それにこだわるとどうしてもこじらせてしまうんですよね。
物語に入り込んじゃうんです。
ま、どんなに体験が強烈だったとしても、それに騙されないことです。
ちょっと落ち着いて、それが体験でしかないことを見抜いてみることです。
「ワタシは悟ったんだー!」
といった思いがちょっとでもどこかにあるのであれば、それが「こじらせの部分」です。
気を付けて観てみたらよいと思います。
さて、こういったパターンはまだわかりやすい典型的な魔境ですが、他にも様々なこじらせ方があります。
別のこじらせ方としましては、
目標を失った空虚感を感じたり、虚しさを感じてしまうパターンです。
今まで何かしらの意味や意義を追いかけてた中で、その意味や意義なんてものは必要ない。
そもそも無かったんだー!ってなことを知ることにより、最初は安心をするのですが、
そのうちに、「自我」が戻ってきたことによって、そういった空虚感みたいなもんを感じたりするんですよね。
自我さんの原動力のひとつに、意味や意義があります。
意味があるから、そして意義があるからこそ行動しようとするわけです。
でも、本来の意味も意義もないという「それ」を感じてしまうと、自我ちゃんの原動力が失われて、そのことが自我ちゃんにとっては空虚感、むなしさとしてとらえられちゃったりするんですよね。
これもちょいとやっかいで、
何も無いのは知ってる。
でも、空虚感、虚しさもここに確かにある。
という袋小路に入ってしまったりするんです。
この虚しさは、ホントは無いことを知ってるんだけど、やっぱりどうしても虚しい。
なんていうか原動力がわいてこない。
何かしらの原動力をこしらえようとするものの、やっぱり、何もないのは知ってるからどこかそれが嘘だという事も感じてしまう。
するとまた虚しくなってしまう。
みたいな袋小路です。
この自我ちゃん自身が概念でしかないわけで、この袋小路が物語そのものなんですけど、どうしても自我を原動力に生きていく。というクセが残っているからこの袋小路に陥るんですね。
それでいて、自我ちゃんのクセとして、虚しさは埋めなければならないといった衝動も起こるわけです。
で、埋めようとするとまた、ホントは何もないを知ってるから~。といった思考がその衝動に水を差すわけです。
ここは、ぐっとその衝動を我慢して、その虚しさと寄り添ってやるしかありません。
埋めようとするでもなく、虚しさの理由探しをするでもなく、
ただ、そのまんまに寄り添うんです。
僕もこの厄介さには手を焼きました。
でも、これも自我のクセが残っているからなんだよ。
ということが分かれば多少は楽になれます。
また他のパターンとしましては、
今の自分の状態と「それ」を比べてしまうパターンです。
このパターンもなかなかしつこい「こじらせ」なんですが、
ついつい、気づかないうちに、以前のクセとして、「自分」が「それ」を手に入れるという感覚に戻ってしまうんですね。
そうなると、自分の中に怒りや憎しみみたいな感情が現れると、
あれれ、まだこんな感情がある。
まだ自分は完全じゃないんだ。。。
みたいに思ってしまうんです。
そしてまた、いろんな覚者の本をひっぱり出しては今の自分と比べてみたりしてね、、、
十牛図とか言われている図とかをみながら、今の自分はどのへんだろうー?
とか考えちゃったりしてね。
これはしつこく何回も表れるかもしれませんが、
「自分」が完全になることはない。
なぜなら、「自分」というのが概念だからだ。
という「それ」に立ち戻ることですね。
自分は絶対に「それ」を分かることはありません。
なので、その「自分」はほっておくことです。
ほっておくことで初めて、
自分に同一化してたことに気がつきます。
ま、この辺がやっかいなこじらせパターンなんですが、
いずれも、ワタシという概念が戻ってくることによっておこるパターンですね。
こういったパターンはいつでも起こりえます。
ただ単に起こるのはそれでいいんです。
でも「それ」を見失ってこじらせてしまっているのであれば、一度「それ」に立ち戻るいい機会として、立ち戻ってみたらいいと思います。
「それ」に立ち戻るとは、
わっかんなーい♪に立ち戻るという事です。
何かを分かろうとしたり、固定しようとしたり、解明しようとするエネルギーに同化していないことなんです。
わからんでも良いやん♪とわからないを受け入れることです。
そうすると、「何かを理解しなきゃいけないゲーム」から脱することが出来ます。