あらゆるすべてが落ちた時に残るもの、それが「それ」です。
です。
なんですが、、、
あんまり言葉に翻弄されない方が良いと思うんです。
っていうか、「それ」とか表現されてますが、「それ」というなにかはありませんし、
悟りでも非二元でもいいですが、そういった何かしらがあるわけでもありません。
なにかが「ある」んじゃないか???
と思ってしまうのは、自我のさがなんですが、なんもないんですよ。
そう。何かがあるはずという考えは、自我のさがなんです。
ということはですよ、自分があると思っているもの、それら一切合切が、ホントは無いという事になるんですよ。
そして、この一切合切が自我が見せている物語だと言えるわけです。
自分のココロの奥底に静寂の「それ」というのがあるというわけでもなく、
あらゆるものを玉ねぎの皮のように剥いで、剥いでと剥いでいくとその中にダイヤモンドのように光り輝く真我があるというわけでもなく、
本当のところはそこにも何にもないんです。
もしかしたら、これだけは本当の事なんじゃないか?
この感じは良い兆候だから、この感じだけは本物なんじゃないか?
とか思ったり、感じたりもするものなんですが、
それも、無いんですよね。
つまり、今までの、何かがあって、それを得る。
といったルールが通用しないんですね。
このルールが身に沁みついていると、
どうすれば「何もない」を得ることが出来るんだ!
と、よく考えたら、あり得ない矛盾を抱えたりしてしまうんですが、
そのルール自体が違ったんだよねということを見抜くと、何でもない事だったりするんです。
僕らが立ち上がり、そこに立脚しようとするとき、
何かしらの考え方による拠り所を求めます。
とある瞑想の教室なんかでは、空(くう)に立脚する。
みたいな表現がされたりしてます。
でもね、空(くう)って、文字通り、なーんもないということですからね。
立脚するにも、その立つ地面が無いんですよね。
もちろんこの表現は比喩なんですけど、比喩であるなら
それほど重要視する必要がないんですよね。
所詮は比喩だから。
真に受けると、こういった何かしらの立ち位置があるんじゃないか?という誤解を持ってしまいます。
この誤解も、
何かしらのモノがあり、それを得るんだ!
というルールがまだ自分の中にあるから出てくる誤解なんですね。
そして、それが誤解だと知っているという知識も、
その知識自体が、自分が得る何か。になってしまうので意味をなさないんです。
なので、一切合切はぜーんぶ自我のストーリーなんだなー。
っていう事に、一旦気づいてしまう。
それには、全ての物語を、ただ観てみることです。
全部が全部、ストーリーなんだとしたら、つかみどころがなく、何もわからんじゃないかー!
ってなりますよね?
でも、わからんで良いんです。
だって、わかるってことは何かを掴むことでしょ?
そう、この掴もうとする衝動(エネルギー)。
これが分離のエネルギーの正体なんです。