Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

メソッドはありません。が、何か出来る事が一つあるとしたら

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便宜上「悟り」と呼ばれている「それ」に到達するのに、どんなメソッドも存在しない。
なぜなら、何かを意図したり、何かをしようと思う事。
そのこと自体が「それ」を見失わせるからだ。

「それ」とは、あらゆる意図や思考が同一化していない、大元の「それ」だからだ。

というわけで、ま、確かに「それ」に対してやれることは無いんです。

が、「何もしない」んですと言われても、じゃあ「何もしない」をやってしまうといった
矛盾が起こったりもするんですよね。

全ては、自分が何かを得る。何かをする。といった誤解があるからなんです。

でも、完全に自分に同一化した状態で、じゃあどうすればええねん!
何もしないことです。
と言われても、「何もしない」をしてしまうし、
修行や瞑想も、「それ」を期待してしまう限り、全く無意味どころか、探究を深めているだけ。
となると、もう手も足も出ないですよね。

ま、手も足も出ないのは良い兆候だと思ったりもするのですが、
あえて、一つやれることがあるとすれば、、、
ってなことを今日は書いてみたいと思います。

さて、「それ」とは決して思考を滅却するとか、止めるとか、そういう事ではありません。

思考が現れるのを止める事は出来ませんし、
また、感情を止めることも出来ません。

これらは、勝手に出てきます。

ですが、その思考がぐるぐると回っている(輪廻している)時に、そのことに気づくことはできるんです。

思考がぐるぐる回っているときは、言葉がひっきりなしに起こってきます。
この言葉こそが思考の元となります。

なので、その言葉をシャットアウトし、わきに置いておくんです。

すると、その言葉を吐き出していた感情が残ります。

この感情。特に、居心地の悪い感情はひっきりなしに思考を生み出します。

なぜなら、居心地の悪い感情については、何とかしてその居心地の悪さを無くそうという働きが表れるからです。
でも、この感情を何とかしようとはせず、ただ、そのまんまその感情に寄り添う事は出来るはずです。

思考の元である言葉に気づくこと。
その言葉をわきに置いておくこと。
思考を生み出す感情に寄り添う事。

これはできるんです。

あ、ひとつじゃなくて、三つになっちゃった。。。。
ま、いいか。

この、感情に寄り添い、その感情が解放された暁には「それ」に到達できるという事ではありません。
寄り添うという事は、その感情に対して、なにもしないという事なんです。
なにもしないと、そのまんまです。

そのまんまにしている。その、そのまんまが「それ」なんです。
すでに「それ」は今、ここに在るわけなんです。

そのまんまが板についてくると、思考がぐるぐるしているのも「そのまんま」やん。
という理解が起こります。

静の中に動を見て、
動の中に静をみる。

みたいな理解ですね。

ただしそれは、
「それ」が映画のスクリーンで、スクリーンに映っている映像が幻想の物語。
という例えでいうと、
そのスクリーンという存在を知っているからこそわかることであり、

映像がリアルでその奥にスクリーンがあることなんて想像もつかない。
といった状態ではどうしようもないわけです。

下手すると、思考の物語の中で「僕らの世界は幻想なんだよ!」みたいな物語を産み出したりしてしまう罠もあります。

自分というエネルギーが強いと、そのエネルギーに巻き込まれて、また思考のぐるぐるにからめとられてしまい、そのまんまが見えなくなってしまうのと、あまりにも自分という概念に慣れ親しんでいるからなんです。
まずは映像の下にはスクリーンがあるんやで、ということに実感として気づかないと始まらないですからね。

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