Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

気づきの感覚

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ふぁあああ、なんか喉かわいたなぁ。
あ、ちょっと寒いなぁ。暖房つけたろ。。。
お!足がかゆい。。。

■■■

ちょ、、、いきなりなんやねん!ってな始まり方ですが、
おはようございます。
たくさんです。

さて、今日は気づきの感覚について書いてみようかなと思います。

冒頭の、
喉かわいたなぁ、、、
ちょっと寒いなぁ、、、
足がかゆい、、、

ってな感覚、わかりますよねぇ?
普段の普通な感じの僕らですよね。

この感覚って、気づいてますよね?
喉かわいとる。
とか
寒い。
とか
かゆい。
とか、、、

これがね。
気づきの感覚なんですよ。

何ていうか、この経験がまさに気づきそのものなんです。

わかります???

この後に、いろいろと思考が湧いたりしますが、
それはただ単に頭の中で描いている物語なんです。
そして、この物語はちょっと置いておいてですね、

ただ単に気づいている。
喉が渇いていることに気づいてる。
かゆいに気づいてる。

なので水を飲む。
とか、
足をかく
とか、

この本当に単純でなんでもないこと。

それがまさに気づきの感覚なんですよ。

本当は感覚ですらないんで、「気づき」なんですけどね。

で、それしかないわけです。

誰が気づいているわけでもなく、
その気づいている主体があるわけでもなく、

単純にこの気づきしかないわけです。

こんなんしょうもなすぎますやーん!
愛とか至福とかありませんやーん!
退屈すぎますやーん!

って思いますよねぇ?

このあまりにもしょうもないので、退屈する感覚。
これは分離のエネルギーなんです。

この分離がしょうもないと思っている「わたし」という概念を作り出します。

愛とか至福とかそういったものが感じられるんと違いますのん?

っていう思いも分離のエネルギーです。

「わたし」が愛や至福を受け取れる。というわけではないんです。
それを欲しがっている衝動。
それが分離のエネルギーなんです。

そして、その分離のエネルギーが、
こんなん退屈でやってられん!
これが「それ」なわけあるかーい!と外への探求を始めるわけです。

退屈すぎて単純すぎて、見過ごされるわけです。

そしてその探求が様々な物語を作り出します。

ですが、その物語は実際にはない空想のようなものなんです。

そっかぁ、これが分離やったんか!
と見破ると、
分離の衝動が弱まってきます。

見破られた時点で、その衝動はしぼんでいきます。

分離の衝動、エネルギーが弱まると、「それ」しか残りません。

そこには、邪魔をする退屈さもなければ、
もっと欲しいという衝動もなく、
ただ単に、淡々と「起こっている」が残り、
起こっている存在が空間のように残ります。

この存在しかないんです。

分離の衝動が取れると、安心や至福が残るわけです。

自分(=分離の衝動)が欲しがっていた安心や至福を、自分では手に入れられないワケは、
こういうことだったんです。

降参とは、見破ることで起こります。
見やぶり、見抜くことで、分離の衝動が覚めて行くんです。

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