Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

生きてるだけでまるもうけ

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おはようございます。タクさんです。
僕が小学生だったころって、ファミコンブーム真っ最中でした。
スーパーマリオとかゼルダの伝説とかが出たときは大流行りでしたね。
でも、もちろんのことながら、そんなにホイホイゲームを買ってもらえるわけではないので、おもちゃ屋さんとかゲームショップに行っては、画面に映るデモ画面を延々と眺めつつドキドキしたもんでした。
買いもしないのに見せに居座ってデモ画面を凝視しつづけるなんて迷惑な小学生ですね。


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さて、なんでいきなり冒頭から懐かしのゲームの話しをしてるのかと言いますと、
ほら、よく、あなたの世界は幻想のようなものだ。
みたいな話がされる時に、ゲームをしているようなものという例え話があったりするんですよね。
あなたが自分だと思っているのは、実はゲームの中の主人公のようなもので、実在するものではなく、ゲームの中で右往左往したり、困ったりしていてもそれもゲームの中のキャラを演じているようなものなんだよ。
みたいな例え話です。
こういう例え話を聞いちゃうと、思わず、そっか、じゃあどっかにプレイヤーがおるのやな!
と思ったりしがちなんですけど、そんなプレイヤーも実はいないんですよね。
ただ、デモ画面が流れているだけなんです。
そのデモ画面のプレイをまるで自分がプレイしているように思ってるだけなんですよね。
そして、もちょっと突っ込んだ話をすると、このデモプレイを観ている誰か?というのも実はそんざいしていなくて、ただ、デモプレイだけが流れているだけなんです。
ただ、デモプレイが流れているだけ。
というのが、ただ起こることが起こっているだけ。
という事の意味になります。
そして、この起こっている事とは、存在そのものなんです。


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人生というデモプレイをプレイしている、行為している気になっていると、どうしてもうまくプレイしようと思ってしまいます。
ですが、行為者はいないんです。
つまり、僕らは生まれてきた時点でちゃんと生きていけるようになってるんです。
木々も、動物も鳥も、魚も、すべての生き物だってそうなのと同じようにね。
もうそれだけで十分で完璧なんですが、その上でいろいろなことを教えられたり、社会のルール(オママゴトのルール)を教えられて、その十分な生の上でオママゴトをやっているわけです。
オママゴトが単に起こっているんですね。
あらゆるオママゴトの物語はそれぞれ、とても面白いものなので、好きに興じればいいだけで、このオママゴトの中で勝っても負けても、満足感を得られたとしても、そのすべてはただの空想上のお遊びみたいなもので、すべてはいずれ消えていくものなんです。
出世レースだったり、
平和運動だったり、
勉強だったり、
スピリチュアルな修行であったり、
それらも全部、完璧の中で興じられている物語なんです。
物語に興じてる間は、そこにプレイヤーとしての自分というひとつの概念がくっついていますが、
このオママゴトに興じるのが終わる時、そこにプレイヤーとしての自分は消え失せます。
なぜなら、最初っからプレイヤーはいなかったからです。
オママゴトに興じようが、
ただ、デモ画面を眺めていようが、
そこには、ただ存在が完璧にそこに存在しているだけなのには、変わりはないんです。

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