Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

今の自分はどの段階なのか?という疑問について

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おはようございますタクさんです。

今日もこのような不気味なブログに来ていただきましてありがとうございます。

あなたも、こんな不気味なブログを読みにくるということは、今までもスピ系のワークや修行的なものをやったり、
それらがバカバカしくなったり、
あらゆる望みはもうかなわないんだ、と絶望を感じた時に、気づきを体験したり、
いろいろなことがあったんじゃないかな?って思います。

あなたに気づきが起こった時。
まさにそれなんだ!と感じられたはずなのに、
でもまだ自我が残っている。
自分という感覚が残っている。

どうすれば、この「それ」に自分が定着できるんだろう?

みたいなことを感じたりもするかもしれません。

いったい自分は、どの程度分かってるんだろう?

みたいな感覚です。

他の記事でも書いていますが、
何かしらの修行なり、瞑想を続けることなんかのその先に「それ」があるわけではありません。

「それ」はここではないどこかにあるのではなく、
「それ」は、今ではない何時かにあるわけではないんです。

こういった言葉は聞き飽きてるから、もしかしたら知識で認識してしまっていて、自身の実感として入りにくくなっているかもしれません。

そんな時、
私はいないのは分かってる。そういう体験もあった。
今ここしかないのもわかってる。
未来や過去が幻想なんだと知っている。
そんな体感も腐るほどあった。

でもまだ苦しいし、自分は依然残っている。

ってな感じになったりするんです。

「それ」は、どこかにはなく、ここに今あります。
今の自分はどの程度分かっていて、どの段階だろう?
という考えは、まさに考え=思考であって、
そういった思考がただ、頭の中でおしゃべりをしているだけなんです。

あなたが気づいた時、私という感覚はなくなっていましたが、いつしか、
あ、分かったかも・・・
という私がもどってきていただけなんです。

そして、「それ」は思考や感情が起こらなくなるということではありません。

悟りをひらいた覚者は思考や感情が起こらない。
だから恐怖も怒りもないし、不安もない。
みたいな誤解がたまに見受けられます。

なので、あの覚者と名乗るあいつは、
金を稼いでいるから偽物だ。
とか、
怒っていたから偽物だ。

自己顕示欲があるから偽物だ。

みたいな意見が出てきたりします。

こういった意見も、誰かが何かを獲得するという誤解から出てきているもので、
「それ」に達すると思考や感情を手放せる。といった誤解があるためです。

思考や感情を手放すという本来の意味は、
思考や感情を自分だと思っていた誤解を見破るといった意味合いなんです。

その誤解を見抜けた時、
ただ、思考はおこるし、感情もおこりますが、
そこに私はいないわけです。

外で風が吹く時、その風は私ではないですよね?
同様に思考や感情もただ起こっているわけです。

そして、面白いことに、そうなった時に
私がいないがすべては私とひっくり返ります。

全てはそれそのものだった!とわかるんです。

どういうことかと言いますと、
私がいないとなると、そこでなにかがひっくり返り、
感情や思考はもちろん、
外に吹く風も
目の前の紙コップも
ペットボトルの蓋も

私ではないが故に、
すべてが
それそのもの
自分そのもの

何かと分けられる自分ってのはいないんですが、
いないからこそ
もうすべてがそれ
すべてしかなく
自分もそのすべてそのものになるんです。

分離がなくなるんです。

そして、おまけに面白いことに、
それは、今までもそうだったし、なんにも変わってないこと、
そしてそれを知っていたことを知るんです。

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