探究者が探し求める「それ」は、目の前に広がる世界そのものです。
そして、探究心が「それ」を覆い隠しています。
僕は以前、「誰でも空(くう)に入れる瞑想法」という触れ込みで宣伝している瞑想法を習ったことがありますが、空は入ったり出たりするものじゃ無いんです。
瞑想や修行やメソッドの先に「それ」があるわけではありません。
それどころか、その行為自体が「それ」を阻害しているのであって、「それ」は何かを極めたその先にあるわけではなく、常に今、開かれているんですね。
色即是空という言葉はそのことを表現した言葉なんです。
色と空は、分かれてはいないんです。
目の前の紙くず。
それが「それ」です。
聞こえてくる雑音。
それが「それ」なんです。
「それ」がもう完璧で完全なんです。
「それ」とは全てなわけですが、
全ては完璧。という言葉に引っかかる人って多いんですけど、これは心を納得させるための言葉じゃないんですよね。
戦争も酷い事故も事件も、それで完璧だというのか!
とか言う人がいますが、
んなわけないんです。心にとってはね。
心はそれを許せないんです。
だって、心はもともとは生命を維持するという本能が、感情や思考その他と混ざり合った総称ですから、命や尊厳を守らなきゃいけません。
そして、この全ては完璧というメッセージは心のその本能を阻害しようというメッセージではないんです。
なぜ「それ」の表現で、完全とか完璧とかいう表現が使われるのかというと、行為者が抜け落ちた時には、もう何かを判断したり良し悪しを決めたりする誰かがそこにはいないからなんです。
そして、行為者がいないことが異常なのではなく、そちらがもともとのあたりまえであって、そのあたりまえのそれの中で、行為者が判断しコントロールしているような気になっていたことってだけだったんです。
そのことに同一化してしまうことが不自然で異常だったんだと気づくわけなんです。
人は何かを見たり聞いた瞬間にそれを判断し、その後に「それを見たり聞いたりしている私」という概念を無意識に感覚として感じています。
この感覚が物語を作り出すんです。
これが、ただの感覚であって、感覚なので実体はなく、そこからくるリアリティは幻想のようなもんなのねー。
ということを見抜けると、その感覚は重さを失います。
ただ、ややこしいことに見抜こう!見抜こう!とすると、そこに「私」感覚が出てきてしてしまうんですよね。