悟りってもっとカジュアルに捉えた方が良いと思うんですよね。
悟った人とか悟りを開くとか。そういった言葉って仰々しいですよね。
正直な話、だれかが偉くなったり、何でもわかるようになったり、とか
そんなことが起こるわけじゃないんですよね。
もちろんのことながら、誰かが悟るといったことも起こらないんです。
そして、これについても、誰かに何かを教わるようなものでもありませんし、
苦労して手に入れるものでもないんです。
ただただ、真実を見抜くだけ。
みたいな?かんじ?
じゃあ、真実がどこかにあるのか?って思っちゃうかもしれませんが、
今の目の前の世界と別のどこかに真実というものがあるというわけでもありません。
目の前の世界が変わるわけでもありません。
その世界に色付けしていた自分に気づくだけです。
これは見抜きが起こるしかどうしようもないので、
スピ系の教室とか瞑想の教室とかに通い詰めたその先に悟りがあるわけでもなければ、
宗教等の修行の先にあるわけでもないんです。
もちろんスピ系とか宗教とかがとっかかりになる可能性はあります。
でもハマってしまうと余計に混乱が増して、探究が深くなるだけになります。
ちょこっとかじった後は、早々にそれらへの依存を取り払っちゃったほうが良いと思います。
見抜くには、何もすることはできませんし、自分が見抜くというよりは、
自分が落ちて見抜きが起こると言った感じです。
それには、ただ観ることくらいしかやりようがないのですが、
あまりにも目の前の現実に押しつぶされそうになっていたり、トラウマがあったりすると、
観ることで余計にトラウマにからめとられてしまったりもします。
そのための、ヒーリングだったり癒しだったり心理療法だったりだと思います。
救いを求めて悟りを求めるというのも、求める心が「それ」を阻害します。
ああ、もう救いは無いんだな。
と納得できれば、「それ」の見抜きが起こるかもしれませんが、
しんどいようにも思います。
それなら、何か良いヒーリング的なものや心理療法的なものがあるなら、
そっちの方が手っ取り早いと思います。
救いを求める心が落ち着いた時、やっとそのココロを観る準備が整ってきますしね。
ヒーリングなどで楽になれたといったような経験から、よりそれを求めると言ったようなことも起きがちですが、それも依存みたいなものなんですよね。
スピの学びに救いを求めるのも同じことです。
もっともっともっともっとシンプルなものです。
学ぶなんてものは複雑すぎます。
深刻さも複雑さの中にあります。
誰かが答えを教えてくれるものじゃないので、
もう、わからないままでええわぁ~。
何もかもわからんわぁ~。
って、わからんの中にリラックスできたとき、、、、
なんで、
そんなに、
わかることに
こだわっていたのか・・・
バカバカしい。。。
・・・
そっか。
これが一人相撲なのか。。。。
けっして全てがわかるはずがないのに、、、
それを分かろうと、、、風車に向かうドン・キホーテのように、、、
踏ん張っていたのが私だったのか・・・・
ってな、見抜きが起こるかもしれません。