はーいおはようございます。
タクさんです。
昨日の続きから行ってみたいと思います。
もし、昨日の記事を読んんでない方は、昨日の記事から読んでいただけると、良いと思うこと請け合いです。
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赤ちゃんは常に「それ」にあり、今の自分はそうじゃ無いとすると、どこが違うのか?
てなことを昨日の記事では書きました。
それは、恐怖の心であり、そこからおこる様々な思考があるという部分。
そこが違うところであり、
それが幻想の物語と言われる部分であり、
それを生んでいるのが恐怖である。
といった話でした。
じゃあ、そこで、そういった思考や感情を取り除いたり、その元にある恐怖を取り除いたりすれば、赤ちゃんと同じになれて、それに到達できる。
つまり、悟りを得ることができるんちゃんかい!
みたいに思うかもしれませんが、
それだとちょっと違うんですよね。
っていうところまでが昨日のお話でした。
さて、ではなんで違うのかについて書いてみよっかなー。とおもいます。
スピ系のワークとかでも、思考や感情であるカルマを手放しましょう!
っやってたりします。
これが結構みんな勘違いしているところなんですよね。
それは無理ゲーだからです
この行為は初っ端から詰んでるんですよね。
どこが詰んでるのかと言えば、
思いを消すための思いを持ち、
感情を解放したいという感情をもっちゃうから。
というところで詰んでるんです。
矛盾しちゃってるんですね。
さて、
赤ちゃんは何にも知識を持ち合わせてはいません。
何もしらないから、ただその未知の中にただあるしかできないわけです。
そして、この未知こそが「それ」なんです。
しかし僕らは、何かを知っています。
火に近づいたら火傷する事も知ってます。
こうやって知る事により、未知が失われます。
そして、知ってる中で生き出します。
小さい子供のうちは、まだ未知の中にある事も残ってますが、徐々に知っている事の力が大きくなり、知っている事に安全を感じるようになり、そのうち、知らないことが恐怖となります。
ここで、もうちょっと深掘りすると、
知った事に頼ってしまう衝動のようなエネルギー。
それが、未知のままにいる事を阻害していくようになるんです。
赤ちゃんは知識が無いから、未知にただあるだけなんですが、
成長する事によって知ることが増えていきます。
そしていつしか、その知った事をたよりにしていくんですね。
すると、視点が知る事にフォーカスされ、気づかないうちに同一化されていきます。
知識を頼りにするのは、生存本能として当たり前に起こる事ですが、そこへの同一化が起こる事により、分離感が生まれるんです。
赤ちゃんはその材料が無いから、分離がないだけなんです。
思考や感情も自然と起こる現象の一つでしかありませんが、そこを頼りにする事で同一化が生まれ、そして、その同一化が分離感を生み出します。
そしてその分離感が、「それにただあること」との違いを起こす元となります。
思考や感情をいくら消そうとしたところで、
これらは、自然現象と同じように次から次へと起こりつづけます。
そこに、同一化しようとする衝動のようなエネルギーは、クセとして残ります。
このクセが、分離感です。
ややこしいですが、思考や感情を消せばそれがなくなる。
といった考え方も、この分離感があるから出てくるアイデアなんです。
この分離感からの解放について、
できる事はありません。
何かをやろうとすること。そしてそうすることによって、こうなるだろうという原因と結果を想定すること。
これが、もう分離があるという大前提の上で出てくる考え方なんです。
でも見ることはできます。
そのままに。
ただ、そのまんま、判断せずに
その分離感を見ていたら、その輪郭が浮かび上がります。
そして、ただみる事によって、その分離のエネルギーは行き場を失うんです。
でも見るといってもよくわかんないですよね。
分離感は、何かを理解しようとする衝動みたいなものです。
わかんないままでは、どうにもモヤっとする衝動です。
これが分離のエネルギーです。
なのでわかんないままに、落ち着いてられるかを試してみることをオススメします。
ここで、わかんないなんて、落ち着かないよー。
とムズムズしてくるとしたら、そのムズムズが分離のエネルギーな訳です。
見つけても、そうか!これが分離のエネルギーなんだな!
みたいにわかろうとせずに、わかんないままに落ち着いてみたら良いと思います。