Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

自我は、落ちる寸前にその輪郭を一層際立たせる。

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あしたのジョーの主題歌で、

サンドバッグに浮かんで消える
憎いあんちくしょうの顔めがけ
叩け
叩け
叩け!
おいらにゃ獣の血が騒ぐ
だけど、 ルルル~ルル ル~ル~ル~ル~ル~
明日はきっと何かある
あしたは どっちだ

って歌があるんですけどね。
僕は、この「だけど、ルルルル―」って部分がやけにシュールで気に入っております。
だけどなんやねーんっ!ってね。
実はこのルルルの部分って、歌手の方が歌詞を忘れたかなんかで、ルルルと歌ったところそれが採用されたとかいう話があるそうですね。

■■■

というわけで、おはようございます!タクさんです!
今日は、憎いあん畜生のお話をしていきたいと思います。

さて、普段このブログでも、
自我ちゃん、自我ちゃんと言っていますが、
この自我と呼ばれる何かというのは実は存在してないんですよね。
自我というのは、自分という感覚のようなものですが、この自分という感覚も、その時その時で全然違うものを感じています。


例えば、
おおらかな自分。
優しい自分。
やる気溢れる自分。
紳士的な自分。

などの自分を感じている時もあれば、

怒りに満ちた自分。
不安な自分。
優柔不断な自分。
自己中な自分。
いやらしい自分。

と言った自分を感じている時もあります。

この自分というものをよくよく観察してみると、
優しいとか、おおらかさとか、やる気というテンション。
を感じているときもあれば、
はたまた、
怒りや、不安、妬み。
みたいなことを感じているときもあります。

ですが、そこにあるのは、その感情的なものだけで、
そこには、本当は自分というものは存在していなくて、
それに無意識にふんわりと、自分という概念を付け加えているだけなんですよね。

この自分という感覚は、
ワクワクしてたり、優しくなっていたり、
そんな前向きでポジティブな感情や感覚の時はあまり気にならないですが、

不安や怒り、妬みやそねみ。
そんな感覚がある時は、特に際立って見えてきます。

こういう時って、だいだい不安や怒りって自分の外側の人や環境によると思っていることが多いです。

あいつの態度、許せん!
なんでこの自分が認められないんだ!
ひどい世界だ!

みたいな感覚です。

こういう時は、しっかりと、
にっくい、あんちくしょうと自分という分離が際立ち、この分離が自分という輪郭をはっきりさせているんです。

こういった時、ちょっと落ち着いて、自分観察をしてみるチャンスかもしれません。

条件反射的にこの苛立ちや怒りをすぐに沈めなければならないと思ってしまうものなんですが、
ここは一旦、ちょっと落ち着いて、それを沈めようとせずに、
あの、あんちくしょうは自分の何に不利益をもたらそうとしているのだろうか?

その不利益がもたらされようとしている自分とは?どういった信念なのだろうか?

この時、その信念を美化しようとせずに探ってみると、よりわかりやすいかもです!

それは自分の行動原理となっていたような指針かもしれませんし、
もしかしたら、もう嫌で嫌で隠し通していた自分かもしれません。

こういった自分という信念が脅かされる時、人はそれを守ろうとする感情や思考が出てくるんです。
その感情や思考が行動を促してもいきます。

もし、何かしらうまくいかないなぁと思っているのならその辺りに原因があるかもしれません。

さて、こういった自分という信念の輪郭が見えてきたら、めっけもんです。
また、見えないまでも、そこには何かしらの自分という輪郭がみえてくるとおもいます。

つぎは、
なぜ、その自分という輪郭が見えているのか?
ということを感じてみるんです。

なぜなら、そこには、それを見ている自分が居るからなんですよね。
だから、気づいているんです。

そしてもっとよく見ると見ている自分さえいなくて、ただ、その気づきだけがある事にさえ気づくかも知れません。


そやって見ていくと、今まで自分だと思っていたのは、ある一つの信念といった思考に過ぎないことが見えてきます。

一つの自分というものがあるのではなく、そこに起こっている様々な、無数の思考や信念が絡まり合っているんです。

あの、憎いあんちくしょうがことあるごとにいってくるいやみも、あなたの自分というアイデンティティーを傷つけるかもしれないという、一つの思考なんだと見えてくるんです。

でもその思考は自分ではなかったと実感できるわけです。

そして大切に抱えていたり傷ついたとおもっていたそのアイデンティティー、その信念は、手放しちゃっても全く問題のない信念なんです。

そうすると憎いあんちくしょうがどうあろうと、ま、別にいいじゃん。知らんやん!
って感じになってきます。
あー、あの人のおかげで、自分という幻想の輪郭に気づくことが出来た!ありがたい!
とさえ思えてくるかもしれません。

また、しつこく嫌な思いはやってくるでしょう。
その時はその思いが自分ではなくただ起こっていることを見て、そしてそれが癒されるチャンスでもあるんです。
あなたがすでに持っている信念は、
あなたが何かをよりよくしようとしたことにより始まった信念であり、他の誰かの信念も、よりよくしようとしたことから始まっています。
それを持っていることは完全に許されていますし、手放しても良いんです。

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