ご飯を食べる時、思考の中では、
私がご飯を食べている。
ってなりますね。
ネコがニャーと鳴いている音を聞いた時
思考の中では、
おっネコが鳴いとるなー
となります。
でも、実際に起こっていることは、
ご飯の匂いがあり、味がある。咀嚼する感触が起こっています。
そして、耳にはニャーという音が聞こえている。
これがありのままの起こっていることですね。
また、この起こっていることが認識出来るのは、その起こっていることに気づいているからです。
さて、この気づきと、ニャーという音。
その間に主体と客体はあるでしょうか?
思考の解釈では、ニャーという音(客体)に気づく者(主体)が気づいたと解釈されますが、注意深く観察してみると、この気づきと音の間には全く距離がないことを発見できると思います。
音と気づきは全く距離がなく、同じモノなんですよね。
この起こったことを説明しようとする時だけ、分離が起こります。
分離が起こり、ネコが鳴いてるねー。となるんです。
説明を試み、言葉にした時だけ、その部分が、
ありのままじゃなくなるんです。
この部分がオママゴトのストーリーとなるんです。
そうやって、五感と、思考、感情が反応したものに分離というスパイスを加えて世界を構築するんです。
ニャーという音は聴覚を通して、
ご飯の味は味覚を通して、
心配や不安は、思考や感情を通して、
ただ、起こっています。
これがありのままです。
探し求めるまでもなく、ありのままはありのままに、今、ここに、存在しています。
それに分離した自分という信念が説明を加えたところで、ありのままがまるで別の作り物の世界に、概念上で作り変えられるわけです。
この概念上で作り上げられたものが物語です。
ただし、あるがままが変化しているわけじゃなく、あるがままは、そのままあるがままにそこにあり続けています。
そこに概念を加えて物語にしているだけなので、それはまさに、オママゴトのようなものになっていて、それがオママゴトだということもすっかり忘れ去られてしまうんです。