Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

迷走を呼ぶ!スピリチュアル探求で起こりがちな誤解あるある。

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今日はスピの探求で起こりがちあるあるを書いてみたいと思います。

ただし、これはあくまでも一例ですよ。たとえ話として読んでくださいね。

さて、

人は聞いたことが知識となります。
そして知識とした途端、それはもう知っていることとなってしまいます。

スピリチュアルの教えでよくある文言。
「私はいない。全ては幻想である」
というおなじみの言葉。

こういったことを、知識として知ってしまうと、
まあ、気分的に良い時はそれで気持ちがいいもんです。

なので素直にその言葉を受け入れられて、

全ては私という概念の思い込みだったんだ!

ああ、

自由・・・

自由だわー!

最高!私がいないということは
すなわち、すべてがひとつなんだわー!

うふふ・・・・おほほほほー!

 とまあ、気分良く受け入れられるわけです。

でもどうしても嫌な現実。
受け入れられない腹の立つこと、どうしようもならんことが現れると
途端に、

「アーーー!む・か・つ・く!!!」
「どうしたんだ!
あの時は、あんなに気分が良かったはずなのに!」

「この黒い、おもーい感情はどこから来ているんだ!」

「でも、全ては幻想なはず!だってあの時わかったもん!
アタシ・・・わかったんだもんっ!」

「この、黒い感情も幻想に違いない!」

「受け入れが足りない???どうやったら受け入れられるんだ??
私の中の何がこれを許せなくしているんだ???」

「あーヤダヤダ!もうこんな黒くて重たい感情を味わいたくない!」
「悟れば、こういった感情ともおさらばできるんだ!」

とまあ、がっつり思考に思考を重ねて、

原因探しと改善策を探し回ったりして、
もうがっつりと思考との同一化をしちゃったりするんですよね。

ここで、よくあるスピ系のワークショップでは、こんなことが教えられたりします。

思考こそがカルマである。
このカルマを手放さなければならない。
カルマを手放すことで思考の同一化から解放されるんだ!

みたいな教えです。

一見、理にかなってるように聞こえますよね!
で、これを真に受けちゃうとどうなるかと言いますと、
もう必死に思考の根っこ探しに夢中になったり、
思考に振り回されないように長時間瞑想に挑んでみたり、
修行的なワークをやってみたり、
必死に覚者と言われている人の話を聞きに行ったり、
ヒーリングや前世療法みたいなものに手を出してみたり、
ともう、スピ系ワークのオンパレードにハマっちゃったりするんです。

これね、、、
もしどうしようもない思考の同一化、つらい現実と向き合えない時。
そういう時には、
心理療法的なものだったり、ヒーリングや瞑想みたいなものって役に立つと思うんです。

でも、この先に探求の終わりがあるのかというと、全く違います。

探求の終わりをそれに求めてしまうと、出口のない探求のループにはまってしまうこととなります。
一時的に気分良くなってしまったりしたら、なおさらです。

で、ループにハマっちゃったりするんですよね。

で、あれれ?これはおかしいぞ!と思う人もいます。

混乱から解放されるためにスピリチュアルを始めたのに、
以前同様、もしかしたら以前以上に混乱が増しているんじゃないのん?
という気づきです。

ラマナマハリシという、えらーいインドのおじさんは、
スピリチュアルの探求のことを

トゲを抜いてまた、新しいトゲを刺すようなもんだ!

と描写しました。

そう、いわゆる現実の混乱から抜け出すために、スピリチュアルな教えを実践したところで、
今度はスピリチュアルな混乱が待っているということです。

トゲを抜いて、すっきりしたのに、新たにスピリチュアルなトゲを刺しちゃってるわけです。

なまじっか、トゲを抜いたときのこと。
つまり現実の混乱というトゲが消えたときの気持ち良さが残ってしまっているために、
余計にスピリチュアルのトゲを刺すことにこだわっちゃって、余計にトゲの数が増えて
混乱が増す。みたいな感じでしょうかね。

そして、ある時、そのおかしさに気づくわけです。

スピリチュアルの探求をやればやるほど、混乱は増してくる。
もしかして、私は現実のつらさを見てみないふりしているだけで、
スピリチュアルに夢見て、夢ごこちになっているだけなんじゃないだろうか?
周りのスピ探求者も夢ごこちになりすぎて、なんか気持ち悪い。
私は○○星人なの〜!とか言い出してるし。
スピ系先生も、地球が泣いている!私たちが先導して目覚めなければならない!
とか、気持ち悪いこと言ってる。
夢ごこちの時は、
私もその選ばれた目覚めた人になりたいわー!きっとなれるんだわー!
とか思ってたけど、
よーく考えると、、、、、、、

キモイ。

 こういった、思考、概念体型が出てくるわけです。

こうなるともう、禁煙成功者が喫煙者をやけに嫌うみたいな感じで、
さらには、自分の恥ずかしい過去を打ち消したいがために余計に、
みたいな感情が働いちゃって、

スピリチュアルは詐欺!現実逃避!スピ系の先生は嘘つき!

みたいな感情が爆発しちゃうわけです。

そして、現実こそしっかりと受け止めなきゃならない。
もうあの夢ごこちのキモイ集団とは関わりたくないし、できることなら撲滅してやりたい!

となるわけです。
この場合の現実が何を指すのかというと、いわゆるスピ系じゃない現実を指します。

スピリチュアルは精神的な世界だとすると、ここでいう現実とは物質世界みたいなものということなんでしょうかね。

これももちろん勘違いであって、
個人が現実だとしている世界は個々人が持っている信念みたいなものです。

スピリチュアルな世界を信念として持っている人は、それが現実ですし、
私は○○星から転生した人間なの〜!っていう信念を持っている人はそれが現実です。
地球を救うために人を導く先導者としての目覚めた人が私だという信念もあるでしょうし、
キリスト教は仏教、その他もろもろの宗教の教えを信念としている人もいるでしょう。
世の中、金や!という信念の人もいるわけです。

これら、それぞれの信念はどれがより上質だということはなく、
どれが正しくて、どれが間違っているということもありません。

こ れ は 、 た だ の 信 念 でしかないわけです。

人はそれぞれ「正義」があって、争い合うのは仕方ないのかも知れない
だーけど僕の嫌いな「彼」も彼なりの理由があるとおもうんだ。
ダーゴナーイ、ダーゴナーイ。

というわけです。
ちょっと違うか・・・?

さて、そして何より不毛なのは、自分の現実こそが正しくて、
他人の現実が間違っているという信念にハマってしまうことです。

好き嫌いはあっていいんですよ。
それはただの好き嫌いだけですし。
それはただ、好き嫌いが起こっているだけです。
でも、それを行為している個人というのはないんです。

でも、それに個人というものがあるという信念が加わることによって、
大きな勘違いが始まるわけです。

この個人があるという信念が、最初のボタンの掛け違いをしてしまうわけです。
「私はいない」という言葉を知識にしちゃうわけです。

知識が認識を生み、認識が分離を生みます。

般若心経で
「色即是空、空即是色」
という言葉があります。

これは現れている、色、つまり物質世界みたいなもの。
それと空、という静寂の世界。

これは同じだという意味です。

ここに分離はないということを示しています。

白い半紙に書かれた筆文字。
これは、白い空間があって、初めて筆文字が成り立ちます。

でも、それら二つは分かれているわけではなく、
一つなんです。
心が分けて考えているだけです。

ただ起こっている好き嫌いに自己意識を重ねれば重ねるほど、
個人という信念は強く大きくなります。

怒りも不安もただ起こっています。

それを、そのまんまにしてはおけないエネルギー。

それが分離のエネルギーです。

この分離のエネルギーは実体があるものではなく、
それに自己意識を重ねることなく、そのまんまにしておくことができると、
分離のエネルギーは行き場を失います。

思考や感情を抑えようとすればするほど、押さえつけようとする力が大きくなり、
それに比例して思考と感情の力も大きくなります。

思考や感情を抑えようとせずそのまんまにしておくことで、その力が行き場を失います。


さて、
ちょっと話がそれました。

何が言いたいねん。と言いますと、

自己があるという信念が分離を生み、その分離という土壌での知識を鵜呑みにすると、
混乱が生まれます。そしてよりこちらが正しいのではないか?という探求がずーっと続いてしまいますぜ。
というお話です。

ダーゴナーイはいい歌ですね。
というわけで、また明日〜♪

最後まで読んでいただいてありがとうございます!!!
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