Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

あなたにおこる不安の仕組み

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自我ちゃんは自分の安全を確保するという本能がベースになっています。 自分の危機を排除し、安全な状態にしておくという至極真っ当な生物の本能です。

これが仕様なわけです。

ちなみに人間の場合は社会的な生物であります。
これはサルなんかと同じで群れで生活をするという事なんですが、

群れで自分の安全の確保をする方法はというと、

自分の味方が多く持っておくという事になります。
味方というのは、考えや思考が同じであったり共感があったりすることだったり、血縁があったり、という事となり、

逆に言うと、考えや思考が全く違うとそれは敵となり、
敵はもしかしたら自分の安全を脅かすかもしれないといった不安があらわれるわけです。

これはもう、本能的な仕様といったようなものなんです。

なので、こういった仕様はなくなったらなくなったで困るわけです。

なので、本来は不安は悪いという事でもないんです。

もしかしたら、安全じゃないかもよ~。みたいな信号ですからね。

そして、この安全じゃないかもよーという信号は記憶をもとに情報を収集し構築されております。

例えば、火に触ってやけどをした経験があるのであれば、記憶にそのことがインプットされて、火を避けようとするわけです。

ここまでは何ら問題はありません。
正常に自我が機能しておるというわけです。

さて、問題になってくるのは、人間はここに裁きという概念を付け加えたりするところなんです。

裁きとは「〇〇であるべき。」といったような考え方です。

なんでこういった裁きがあらわれるのかというと、
根底に、この自我は自分がコントロールしているという誤解があるからです。

そして、自我をコントロールしているからには、うまくコントロールしなければならないといった概念が生まれるわけです。

その裁き項目が雪だるま式に増えていくことによって、自分自身が不自由になっていくんですよね。

ただ、単純に、自然に事が起こっているだけ。

そこには分離もなくただ表れるままに現れているだけ。

というシンプルかつダイレクトだったところに、裁きを増やしていくにしたがって、そのダイレクトさを忘れていっちゃうわけなんです。

そして雪だるま式に増えていったたくさんの裁き大きな荷物として心にのしかかるわけなんです。

さらにこの裁きを正当化させるための設定も作り出します。
思い込みみたいなものですね。

この設定も裁きと一緒に増殖していくわけなんです。

さて、 あまりに裁きと設定が多くなりすぎると、どこかで矛盾があらわれてくるんです。

その矛盾もどんどん増殖されていき、それがガンガンと増えていくと病気になっちゃいます。

オーバーヒートしちゃうんですね。

矛盾というのはAこそが正しい判断だ!
だけどAと真逆のBも正しく見えてくる。
あれ?どっちだ??? みたいな感じの考えですね。
自分に自由に生きるべきだから、もう会社やめたろ!
でも、金は必要やから、会社辞めるわけにはいかん。
こんな感じの対立でしょうかね?
めっちゃ単純化していますけど。

パソコンのプログラムなんかで組み方を間違えると暴走するのと同じですね。
Aというアドレスにメールが来たら、Bに転送すること。
Bにメールが来たらAに転送すること。
この二つのプログラムを実行してしまうと、サーバーがパンクするまでメールが無限に送り続けられてしまう。っていうのと似ています。

ひっきりなしに頭の中で言葉が浮かび続け、判断をし続けるわけです。
こういったループしてしまうバグみたいなものは、裁きや判断がなくても起こり得るわけですけど、裁きや判断に固執するとより大きくなるわけです。

また、これがただループバグが起こっているなぁ。
ということにも気づいていれば、大した問題でもないんですけど、
それが、自分事として大きな深刻なことだと思いこんじゃうことで問題として認識されちゃっているんですね。

さて、この裁きや判断が、
お釈迦さんが「気を付けていなさい!」と言っていたことであり、

偉い聖者さんが観察しなさいと言っていた部分であり、

修行者が瞑想したりするのは、この判断・裁きと距離を置くという事であるわけですね。

ですが、この裁きや判断を観察したり距離を置いたりしてある程度は楽になるかもしれませんが、それらがなくなることはありません。

これらは自我の本能として自動的に発生し続けるからです。

そして自我をコントロールしようとする誤解から生まれるクセもあるんですね。

これが執着です。

このクセ、執着を見逃していると、裁きや判断を観察し続けるといったループバグにはまってしまう可能性があります。

裁きや判断は消し去らなければならないという裁きが新たに生まれてしまうんですね。

このコントロールをしようとするクセ、執着は実体があるものじゃありません。

髪の毛のクセとおなじで、押さえつけてもぴょこんと跳ねる、
いわゆる力学的なエネルギーと似たようなものです。

ただし力学的なエネルギーなら反対の力を加え続けることで消えていきますが、 執着のクセは力学的なものではないので、力で押さえつけられるといったものじゃないんです。

でも、ほっておいて自由にさせておくと途端に行き場を失うんです。

ややこしいのは、ほっておく誰かはいないというところです。

このわけのわかんなさこそがキーとなるところですね。

わかりたい。わかることが虚構で、
わっかんなーいが真実だというわけです。

このあたりが、文章で書ける限界なのかもしれませんね。


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