私がいないのが本当だとしたら、何にもできなくなるじゃないのか?
ただ、脳みそお花畑なおバカになるのじゃないのか?
とか、自我ちゃんは相変わらずそういった仮定の話を持ち出してきます。
どこまでいったって、自我ちゃんはわかってないと怖いのです。
そして、わかろう! わかっていようとするのです。
これは心(自我)が自分の仕事をちゃんとしているということです。
そして、この心(自我)はあなた自身ではありません。
あなたは、トイレ行きたくなったら、勝手にトイレに行くでしょうし、
腹が減ったら、何食べよーかいなーって勝手にご飯の準備を始めます。
そういった起こっていることに、
後付けで「自分が行為している」という概念を付け加えているだけです。
僕らは自分の足でちゃんと立てるのに、
どうしても杖を持っておかないと怖いんです。
だから常に杖となるものを探し続けるのです。
それが「苦」の原因となっていて、
その「苦」を埋めるために余計に杖を探し求めているんです。
この繰り返しが輪廻なんですね。
「私はいない」というのは、別に現実の否定ではありません。
本来は未知であるということの気づきです。
それは、物事を未知のままダイレクトに見つめるということです。
もっとちゃんと表現すると、未知がそのまま全てであり
それにダイレクトであるということは、その全てとあなたは分かれていない。
ということになりますね。
気づきも見つめるというのも本当はないんですね。
だから悟るということもないんです。
それ、そのものがすでにそれ!
それが三昧なんです。
そしてそれは既知からの解放なんです。
僕がここで書いているのは、方法でもなく道でもありません。
何かを指し示しているのではなく、
あらゆる誤解の破壊なんです。
誤解を生み出すのは既知なんです。