Life is like children playing house.

非二元、ノンデュアリティ、悟りからの目覚め。

幸せと不幸のカラクリ

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 僕らは基本的に幸せになりたいと願っています。

そして、幸せになるためには、嫌なことを排除したいとも思っています。

幸せとはであり、嫌なことは不快なんです。

そして、快を求め不快を避けようとするのは、生物としての本能のようなものであり、ただ単に起こる反応なんです。

生命を脅かすような記憶があれば、今後はそのような状態を避けようとします。

目の前の出来事が、
快なのか?
不快なのか?
を、、記憶を探って判断されるんです。

この判断は誰かがしているのではなく、自動的に起こっています。

これだけなら、なんら問題はありません。
快であれば、そのままで良いですし、
不快なことにであれば、ただ単に対処すれば良いし、対処できなきゃそのままでもいいんです。

雨が降っていたら傘をさす。
傘がなきゃ雨宿りする。
それも無理なら、しゃーない。濡れて帰ろか。
ってなもんです。

ですが、その不快な感情に、私という概念がくっついた場合、その不快をなんとかしようとします。そこで、なんでもなかった一つの反応が不快として認識されるんです。

不快の原因は記憶にあります。

そこからさらに思考や記憶の検索などを繰り返し、なんとか不快を解消しようとする策を探し始めます。

そこで僕らは、その不快の原因を知ることで、解消できるかもしれないと思い、その原因を探そうとしたりもします。

例えば、過去のトラウマが原因となっているかもしれませんし、前世が原因かもしれないと考えたりします。

そして、過去の記憶を知ったり、前世療法みたいなものを利用したりすると、もしかしたらうまく原因がわかって、その不快を理解し、自分に許すことによって、解消できるかもしれません。

いずれにしても、これらのことは
今、この場で起こっている反応であり、
今現在ある記憶を探っているということです。

そしてその記憶は、前世でも過去に起こった事でもありません。

記憶があるから正しいということではなく、記憶は結構いい加減なものです。
記憶は今、都合よく作られ加工されているのです。

このような、快や不快に対応することについては、反応がただ単に反応として起こっていることに過ぎません。

反応とは、ただ、風が吹いている、
手を叩くとパンって音がなる。
といったようなことと同じです。

この自分の不快は、なんとかしなければいけない喫緊の課題である!!!!
といったことではありません。

ただ、現象として起こっている反応なんです。

でも、どうしてもそのことにこだわってしまうということが、いわゆる原罪なんです。

原罪とは別に悪い罪を背負って生まれてきている。
ということではありません。

ただ単に見当違いをしているということだけです。
その見当違いというのが、
それをしている自分がいる。
行為をしている自分がいる。
という思い込みなんです。

この辺のことは、また改めて詳しく書いていきたいと思います。

ほなまた〜!