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Life is like children playing house.

人生はおままごとのようなもの。

知る至上主義からの解放

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おはようございます。タクさんです。

腰痛に苛まされる今日このごろ、
皆様の腰の具合はいかがでしょうか?

さて、
ちょいと業務連絡でございます。
このブログのコメント欄ですが、少しの間、一旦非表示にさせていただいております。
コメントを頂いた皆様。ありがとうございます!
とてもとても、感謝感謝でございます。
引き続き、感想や質問などについては、facebookのメッセージ方からいただければ幸いでございます。こちらの方にも感想や質問をいただくことがあるんですけど、第三者を介さない一対一のやり取りですので、コメント欄よりもより良いやり取りができるかも???と思います。

というわけで、本題にまいりまする!

いつも何か知ったふうなことを書いている僕ですが、
実はね。
僕が何かを知ってるってわけじゃないんです。

おまえ・・・知ったふうなことを語っとるくせに、何も知らんかったんか!
ってねー。
思われる方もおられるかもしれませんが、
この辺のことについて、今日は書いてみたいと思います。

 

なんていいますか、人ってね。
知る至上主義っていうものが、無意識のうちにデーンと居座ってたりするんですよ。

赤ちゃんの時は無いんですよ。

自我が芽生えた辺りから、どんどん、知る至上主義って言うようなもんが
幅を利かせてきよるんですね。

子供なんかの会話を聞いてたら、

「僕、あの事知ってるもーん!エヘン!」

「僕なんてもっとあの事知っとるよ!ドヤッ!」

みたいな場面があったりするかと思うんですけどね。

どうにも、あの辺りから知る至上主義が幅を利かせてきとるんとちゃいまっしゃろか??
なーんて思うわけです。

でね、
この知ったことの中から出ることができなくなっちゃうんですよね。

認識の中だけが世界になっちゃうといいますかね。

あなたの知らない世界。

みたいな世界について捉えられなくなっちゃうと言いますか。。。

ま、知らないものを捉えることは出来ないわけなんですけど、
世界は捉えられたものだけの中にしかない。

みたいなねー。
上手いこといえませんけど、その中に閉じこもっちゃうわけでして、
世界を広げるには知らなきゃ始まらんやろ。。。

っていうような感覚に慣れきってしまうんですよね。

この知る至上主義がね、崩れ去るんです。

あ、これが全てじゃないどころか、全ての中の点でしかないんやん。
ってな感じです。

知るの中の窮屈さから抜け出せるんですよねー。

もちろん、こういった話しを、依然、知る至上主義を土台に置いた状態で聞いたとしても、

「ま、それも一つの意見なんとちゃうのん?」

ってなりますのでね。

意見として捉えようとせずに、わからんままでおることを許さんとする衝動がありますやろ?

その衝動からの解放の話ですねん。

ってな表現になるんですよねん。

もちろん、何かを知って理解をするといった能力がなくなるわけじゃありません。

それが全てだと思っていた誤解から解放されるって感じです。

知ったことのすべてが、単なる便宜上のルールのようなもんでしかなかったわけです。
人間と言った個別の種族がいるわけでもなく、

無機質と有機質といったような、生きてるものと生きていないものといった区別も実はなかったんです。

ちょっと笑ったのが、ペットボトルの蓋もイノチそのものやったという気づきだったわけなんですけどね。

国境が実際の土地に線が引かれてるわけじゃないのと同様に、
捉える世界、知る至上主義の中だけに境界線があると見なしていただけで、
実際の分離なんてなかったんです。

ありとあらゆるものに分離がなかったんですね。

だからといって、この分離のなさを、分離の中の知る至上主義の中で役立てられることも無いわけでしてね。

自分がなんとかなるという話でもなけりゃ、何かしらの特別になる話しでもないということなんです。

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誰かの言葉はどうでもいい。自分の奥に感じるものを見てあげたらエエねん!

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「よそはよそ!うちはうちやでぇ〜!」

ってねー。
子供の頃、母親によく言われました。

友達の◯◯君は、めっちゃファミコンのカセット買ってもらってるでぇ!

とかね、ファミコンのカセットをねだってる時に、
「よそはよそ!うちはうちやでぇ〜!」
「イヤやったら!◯◯君ところの子になりなさい!」

ゆーてねー。

 

というわけで、おはようございます。
タクさんです。

冒頭の、「よそはよそ!うちはうちやで〜!」
っていう言葉なんですけどね。

ファミコン買ってくれ〜!言うてる子供にも有効ですが、
非二元の話とかでも結構有効やと思うんです。

なんていうかねー。

コメントで溝口さんという有名ナイスティーチャーも
非二元警察?という輩がおる!
なんてことを言ってたってことを耳に挟んだんですけど、

なんていうか、
自分(=ある程度学びが進んでいる!)
といった思い込みがあったりしますとね。

どうしても、こういった話の重箱の隅が気になってきたりするもんなんですよね。

そういえば、三国志という物語に出てくる周瑜というイケメンのおっさんは、
楽隊の演奏で誰かが一音でも外したら、
ピクッとして、ジッと見てくる。
といった話が残ってます。

周瑜さん。
音楽にうるさいおっさんだったんですね〜。

って、全然関係ないですね。
三国志の登場人物で、周瑜は結構好きなんですよ。。。僕。。。

ま、いいか。

でね。
こういった話を気にしても仕方がないのは、まず話になった時点で半分以上はウソやからですね。
僕が書いてる話も半分以上はウソなんです。
ウソっていうと語弊があるけど、半分は偽が混じるんです。
言葉の性質上としてね。

言葉は何かを分離して捉えるっていう道具ですからね。

後は、読む方は自分との一対一の対話のように感じたりしますが、ティーチャーさん達の言葉は色んなパターンの中のいちパターンに向けて言ってたりもしますのでね。

こういう話は、自分の胸の奥がファっときたらそれで良し。
こなかったら、単にスルー。

権威のあるエライあの人の言葉だろうが、酔っぱらいのおっさんの戯言だろうが、
価値は一緒ですのでね。

自分の奥に感じる「ふぁっ!」を見てあげたらええと思うんです。

はたまた、
こういう話をしているティーチャーはいったいどんな状態なんだろう?
みたいな疑問とかもねー。

こういった思いも、結構、的を外してるんですよねー。

そもそも、個人がおらんっていう話ですからね。

そうは言っても、わかったらなんか個人がええ感じになるんでっしゃろ??
みたいな疑問って拭えなかったりするのかもしれません。

でも、誰かが何かしらの特別になるわけじゃないんですよね〜。

それでいて、何かしらの重たい感情?とかが起こってるのなら、
単にそれが起こってるだけですしねー。

実は、嫌な思い自体が重たく感じさせる原因となってるんじゃなくて、
その思いへの抵抗がね、重たくさせとるんです。

抵抗せんかったら楽なもんです。

良いも悪いもなかったんやん!っていうのも、抵抗が抜けたら気付けるんですよねん。

抵抗の最後の砦みたいなもんが、「自分」という分離感やったりするんですけどね。

なので、何かしらの外の枝葉がどうにも気になるなぁ、、、なんて思ったら、

「よそはよそ!うちはうちやでぇー!」
ということで、

おっと、気にしない気にしない。
一休み。ひとやすみ。。。

で良いと思うんです。

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追記:業務連絡
ちょいと諸事情で少しの間、コメント欄を非表示にさせていただいております。

起こっていることの法則性を探る性(サガ)

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ただ起こっているだけ。
ではあるんですけど、この起こってることには何かしらの法則性があるように見えたりしますよね?
磁石は磁石同士でくっつきますし、鉄もくっつきますし。

空がどんどん曇ってくると雨が降ってくるパターンが多いですし。

僕らは、こういった法則性を集めては、つかみ取り、何らかの対処の役に立てようとします。
天気予報だってそうですし、最近は地震予想の話題も注目されていますしね。

 

ちなみに、こういった非二元とか、悟りの話でも、何かしらの法則性を探ろうとしちゃったりすることも多いと思うんです。

自然と、当たり前に、法則性を探ろうとして、わかろうとするわけですよね〜。

メッセージとかコメント欄でも色々と質問を頂いたりもするわけですけど、
よくある質問の一つは、この法則性を探ろうとする質問だったりします。

この法則性を探ろうとするのは、もう人のサガですからねー。

で、このサガも含めて、起こってることなんですよねん。

探ろうとするからには、やはり自分(じぶん)という中心点があって、
この中心点があるから、探ろうとするわけなんですけど、
こういうクセも、ただ起こっとるわけです。

起こしている誰か?っていうのがいない中で、いるように見えてる世界が展開してるんですよねん。

ここで言ってることというのは、そのクセも含めた見抜きの話なんですよね〜。

ま、いつもそのことについて書いてるわけじゃなくて、もっと楽に考えたらええやんみたいな話も書いたりしてるんですけどね。

なので、誰かがどうにかなる。ということじゃありません。

どんなすごーい悟りの体験をしても、このクセが残ってたら、
この体験を自我のまな板の上に持ってきてしまいます。

体験っていうのは、副作用的に出てくるもんなんです。
もちろん見抜きが起こるときって、何かしらの体験がセットになってる場合も多いんですけどねー。

なので、体験によって気づいた。
といった表現をされる方も多いと思います。
それは、な~んも間違ってないんです。

でも、この表現もくせ者で、体験によって自分が気づいたってことじゃないんですよねー。

このクセについて、自分で見ることってできないんですよね。
なぜなら、クセ自身が自分ですからね。

でもって、自分という感覚?というのは、動きなんです。
動きを捉えることって出来ないんですよね。

自分とか自我というものは、
中心点について名付けられた名前。つまり名詞ではなくて、
動きを表した動詞である。
と言ったイメージなんですねー。

自我っていうのも、そういった動きなんです。
実際に自我という何かがあるわけじゃありません。

ま、実際に何かが動いているっていうのでもなくて、
ホント、クセのようなものですので、
エネルギーと言うほうが近いと思います。

探求の動き。みたいなもんですね。

起こっていることの法則性を探ることは、
確かに何かを解明するのに役に立つようなこともあるように見えます。

特にトラウマなんかにがんじがらめになってたりすると、
ある種の癒やしなんかは役に立つと思うんです。

よく聞く、心理的なセラピーとか、前世療法なるものもあったりしますよね。

心理的なアプローチでも前世でも、共通点は記憶です。

この記憶から生まれるある種の観念は、単なる観念にすぎないということを発見すると、
そのことに対する不安感が消える。

みたいなね。
そういうことは有ると思うんです。
観念というのはある種の信じたことから生まれる概念ですからね。
その信念が強いと、強迫観念みたいになってきよるんですね。

この観念の信じていることを弱めてあげると、強迫的な感覚は薄れていきますからね〜。

でも、ここで言ってるのは、それも含めて、全ては自分という観念から起こっとる。
ちゅうことなんですね〜。

この自分という観念は、寝グセのように、ペタンと抑えても、ぴょこんとはねてくる。
このぴょこんエネルギーのようなもんなんです。

この「ぴょこんっ!」は見てあげると弱まります。

自分を中心点に置かなきゃ、何も始まらんやないかーーー!!!
という信念もこの「ぴょこんっ!」の特徴の一つでしかなかったわけです。

見ると言っても、どうすれば・・・。
ってね。
思いますよねぇ?

それが、わからんままにしておく。
ということです。

わからんままにはしておけーん!!!という衝動がこの「ぴょこんっ!」なんです。

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先に好きな在り方でおったらええですねん

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「わー嫌やわぁ」
ってなことがあると、やっぱりなんとかしておこうって思いますよねぇ?
とにかくこの嫌っていうのを抑えとかないかん!
ってなことでねー。

何かしらの問題は早めに解決しとかないかん!
っていうことでね。

ま、簡単に解決できるようなことは、問題にすらなりませんので、
問題になっとるということは、自分の中でどうにも解決できん!
ってなってるようなことであって、
それをどうにかしたいー。ゆーてねー。
ぐるぐると頭の中を駆け巡るわけですね。

そーなってしまいますとねー。
結局のところ、道具に支配されてるといいますか、
妙な心に支配されてしまっておりますのでね。

ま、この妙な心配も自分であって、自分で問題を作り出し、
自分がこの問題に対して不安を解消しようとするっていうループになってしもてたりしますからねー。

この問題も自分が持ってる何かしらの概念から来とるわけだったりするんですよね。

 

ま、
わー。なんか嫌やわぁ。
っていうようなことから、どうにかしようを始めるんじゃなくて、

先に、どういう在り方が良いのか?
っていうこの在り方をもう先にやってしもたら良いと思うんです。

お金が欲しいっていうのがあったとするならば、
本当はお金じゃなくて、心配のない状態ってのを望んでたりするんですよね。

だとすれば、どんな在り方になってるのか?
この心配のない状態を望んでるということになるわけです。
「ふぁー。心配もないし楽やわー。リラックスやわー。」
てな感じのリラックスを求めてるんやと思うんですよね。

このリラックスを求めて、心配事がなくなれば、そうなるんとちゃうやろか??
ってね。
心配事の方をなんとかしがちなんですけど、

「ふぁー。ええわぁ」を先にやったったらええねんってねー思うわけなんです。

実は、
どうあるかについては手段は必要ないんですよね。

思い込みの方で、勝手にこの心配をなんとかしないとリラックスできん!
って思い込んどるわけでしてね。

で、この心配の方も、勝手に思い込んでるもんですし、
さらには、この心配に至る原因の方も自分で作ってる仮定でしかなく、
この仮定を成り立たせる大前提もイメージとして思い込んでた意味のないものやったりしてねー。

しかも、心配事をなんとかしようとしても、次から次ですのでね。
ゴールがないんです。
これは悟りも同様で、悟りを手に入れようとしても、
いつまでたっても「悟った!」という状態はやってこないんですよね。
なぜなら、そんなもんは無いからなんです。

ま、何にもなさが「それ」な訳ですけど、何にもなさとは何なのか?
ってね。
探し求めたりするわけなんですね。
そうすると終わりが無いんです。

なのでもうしょっぱなから、
ふぁーってリラックスしてしもたらええんですよね。
するとあとは勝手に起こることが起こってくれるんです。

そのために必要な手段なんてものは無いんですよねん。

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全てしか無いと言われても、相変わらず体の範囲しか認識できませんが??

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非二元では、全てしかないと言いますけど、
その中で私は冷蔵庫にもなれず、コップにもなれず、
相変わらず自分の体の範囲しか自分だと認識できないんですけど?

ってねー。
思わはるかたもおられると思うんですけどね。

結構、何かしらの状態になるのか?みたいな誤解があるようにも思うので、今日はその辺を書いて見たいと思いマッスル。

 

目の前のコップはどうしても自分という認識はありませんし、
冷蔵庫だって家電ですし、自分じゃないですし、

全てしかないっていうからには、その全ての中に溶け込んでるわけですので、
冷蔵庫だってコップだってそういう分離なく、自分だと認識できるはずやとおもうんですけど、
そんなのは変ですし、そんな状態で日常生活もおくれませんやん?

ってねー。

んー。
気持ちはわかるんですけどねー。
結局のところ、
そのコップも
その冷蔵庫も自分の中にありゃしませんか?

って話なんですよね。

日常は普通に日常としておればいいですし、
なんか、全てしかないっていうのをことさら主張して生きていくっていうのとも全然違うんですよねー。
それだとしたら、なんか悟った風を気取って生きてるってことになるじゃないですかぁ。
そんなん、キモイですやん?

そういうのが好きな人はそうしてもいいんですけど、
友達と喫茶店に行った時も
「あんた何する?」
って聞かれたらいちいち、
「私というものは存在しませんが、この体の現れが、カフェモカを欲しているように感じますので、カフェモカをいただけますでしょうか?」

なんてねぇ。
言ってられませんやん??

多分、何十回も書いてると思うんですけど、
何かしらの特別な誰かになるっていう話じゃ無いんですよね。
そして、アタマで理解する何かでも無いんです。

なので、何かが変わるってことじゃ無いんです。

何かしらの状態を維持することでもなけりゃ、
自分の認識を変えるってことでも無いんですよねー。

なのでね。
自分が何かを演じてるわー。っていうことが起こるのなら、
普通に演じればいいですし、演じることが起こらんのなら、それでええんです。

演じることがなくなるってわけじゃありません。
それやったら、裸で出歩くようになるかもしれませんのでね。
だって、服を着るってのもある種の演技ですからね。
でもそんなん、変ですやん??

自分という認識が日常を捉えて生きている。
っていうのが、普通の認識かもしれませんが、

単に起こっているだけです。
そこに日常とか自分という認識があるように見えてるだけです。
見えてるならそれでいいんです。

その見抜きがあるだけです。
ホントはその見抜きがだれかにおこってすらなくて、

ただ、
在るだけ。

何ですけどね。

この在るだけってのは状態ではなく、当たり前のソレそのものです。

地球が平たいと思っていると、どこかに断崖絶壁があって、このまま船旅を続けてると落ちてしまうかもしれん!
っていう不安がどこかに在るかもしれません。
でも、
地球がホントは丸いことを知ってたら、そんな不安は起こりません。

自分という何かしらの認識や、その自分を中心として生きていき、
その自分がなくなると全てが失われるかもしれない。
っていう不安は、断崖絶壁に落ちてしまうかもしれないっていう不安に似てます。

自分という認識が起こってるならそれでいいですが、
それをどうにかより良いもの、何かに書き換えていかなければ!
みたいな思いは別に絶対必要なもんじゃ無いんですねー。

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なんの虜になる必要もない

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物事を捉えるには、何かしらの物差しが必要になるんですけどね。
そうやって物差しを使って、何かを無意識に判断していくうちに、
その物差しの存在がいつしか無意識になっていって忘れとったりするんですよねー。

で、いつしか判断する道具だった物差しに逆に支配されちゃってたりしてね。

 

よくこういった話で、この物差しが悪い!
っていうか、この物差しを手放さなきゃならん!
みたいな捉えられ方をする場合があるんですけど、物差しは全然あってもいいと思うんですよ。

ただ、この物差しがあることを忘れてしまってたとしたらねー。
見てあげることで、その物差しが見えてきますよ。っていう話でしてね。

あっても全然いいけど、この物差しに支配されちゃうとしんどいんですねん。
ってだけでして、単に道具として物差しを使ってあげたらいいんです。

儀式に縛られる必要はないですけど、儀式を楽しむのは全然オッケー!ですし、
社会に縛られる必要はないですけど、社会的に生きるのは全然良いわけですし、
ルールに縛られる必要はないですけど、ルール上で楽しめば良いですしね。

ルールが無いなら人を傷つける行為とかもいいの?っていうような批判がたまに聞こえてきますけど、
そういう行為ってのも、縛られてる抑圧から起こっとるわけでしてねー。
ルールを無視して傲慢に振舞うといったことでも全然ないんですよね。

こういった物差しを固く握りしめてて、さらにその物差しが、単なる物差しでしかないってことを
忘れてたりすると、
固定観念が強まってきてたりするんですよね。

こういった固定観念が、自分に向いた時は、
妙な罪悪感だったり、不自由な感覚として受け取られたり、
妙な心の重さとして感じたりするかもしれません。

そしてそれが他人に向いた時は、
他人や社会に対する批判からくる怒りになるかもしれません。

冷静な批判は全然いいんですけど、たまに批判に取り込まれて、
自己陶酔しちゃってるパターンとか、
しまいには怒りに巻き込まれちゃってるパターンとかもあったりするんですよね。

物差しにはもともと何の力もありません。
この物差しに力を与えてるのは自分自身の観念やったんですねー。

物差しを手放そうとするのも、もしかしたら、何か別の物差しによる差し金かもしれませんのでねー。
そんなたいそうなことをしようとするよりは、
単に見てみたらええんですね。

単なる何の変哲も無いモノに、
これは伝説の勇者、ロトが使ったありがたーい剣なのである!
っていう観念がひっついてくると、
ロトの剣!になったりしてね。

例えが変ですね。

ま、物々交換の道具であるお金に妙な安心感を求めたりしすぎると、
こちらが使う道具だったのが、逆に道具に支配されちゃう。
って感じですかね。

そして、それをしてるのも自分っていう皮肉さ。

それが独り相撲ってことなんですけど、

お金もそれ自身では意味のない単なる道具だとしたら、
自分で作り上げた物差しも単なる道具でしかないわけなんですよねー。

こういった何の力もない物差しに力を与えていたことを
単に見てあげるとね。

この物差しにキュッと意識を収縮させてた部分がふぁっと溶けてくるんですよねん。

心と体は同じものですので、収縮さが抜けてくると、心も解放されるのと同時に、
知らない間に力を入れてた体の方もふぁっと力が抜けてきてくれます。

頭の中心とか、胸の奥とか丹田とかが、ふぁーっと緩んでくれるんです。

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赤ずきんちゃん

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赤ずきんちゃんってさぁ、、、
この「ちゃん」は赤い頭巾に付けられた愛称であって、
その頭巾をつけた女の子に対してのものじゃないはずだよねぇ。

なので、赤ずきんちゃんを付けたお嬢さん!
って言わなきゃいけないはずでしてねぇ。

しかも、お母さんは、赤ずきんちゃんのことを、
「赤ずきんや、おつかいに行っておくれ、、、」
みたいに言ってたりするんですよね。

おばあちゃんも
「おや!赤ずきん。よく来たね!」
みたいなことを言っとるし、、、

親にもそう呼ばれているということは、
もしかしたら、この女の子の本名が「赤ずきん」という名前なのかもしれない。
じゃあ、青い頭巾をこの女の子がつけると、

「やあ!赤ずきん!今日も青ずきんがよく似合うね!」
ってなことを言うことになるのか・・・。

は!!!!!

それとも、このお母さんもおばあちゃんも、ちょっと変な人で、頭巾に独り言を言う人だったのかもしれない!!!

あー、、、、きっとストレス溜まってはるんやわぁ〜。。。

みたいなクソしょうもない想像をしつつ、コーヒーを飲んでる今日このごろ、
皆様いかがお過ごしでしょうか?

 


おはようございます。タクさんです。

さてさて、
みんな色んな思いで、こういった非二元話に興味を持ったんだと思うんですけどね。

もし、何かしらの辛いことを解消したい!という目的をもって、悟りとか非二元とかをマスターしよう!って思ってるのなら、あまりオススメできないかもしれません。

なぜなら、辛いことを解消する方法論の話じゃないからなんです。

一見そう見えるかもしれませんけどね。

この辺の誤解がよく見受けられるんですよね。

例えば、
こういう話をしている人は怒ったりしない。
とか、
こういう話をしている人は勝負したりしない。

とかね。

全然関係ないんですけどねぇ。。。

聖人君子になるわけでもないですし。。。

ま、たしかに、副作用としてあまり重さが気にならなくなってきたり、
カチンってくることがあっても、「ま、いいか。知らんやん」って感じで、
スルースキルが増してくるので、そのまま起こっては去っていくスピードが増したり、
楽しいことやってりゃ良いか〜。って感じで、かる~くなってはくるんですけどね。
あくまでも副作用ですからねー。

「それ」そのものの在る。っていうある種の何かが「自分」に適用される。
という話じゃないんですよね。

「自分」っていうのは、何かしらの起こりです。

現象のひとつなんですよね。

それは風が吹いているのとか、光がピカーって光ってるのと同じような現象なんです。

現象は常に起きていて、変化を繰り返していますが、この変化っていうのも何かを掴んで固定化する結果変化として認識されるわけで、ホントは全ては起こっていて起こってないわけなんです。

とはいっても、
やっぱり人間、生きてりゃ色んなことがありますよねぇ。

自分が大変なときって、自分以外の人はのほほんと生きてるようにみえるもんですけど、
誰だって一緒です。

まずは、いろんな思考が起きとるって事に気付いてみないと始まらないんですけどね。
頭の中のお喋りだったり重たい感情だったり、そういうことが起きてて、
その起きてる事に何かしら抵抗しようとしとる。
っていう事にただ気付いて見るんです。
それがスタート地点?な訳です。
気付いて見ると、その気づきをそのまんまにしておいてみるってことが始められますのでね。
思考に気付いてみるとか見てみるっていう余裕もなさそうであれば何かしらの癒しなり、思考を静める瞑想とかも試してみても良いと思うんです。
瞑想や癒しが悟りに導くってわけじゃないんですけど、そのまんまにしてみるっていう準備にはなるかもしれませんのでね〜。

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